「他人事ではない」語り継ぐ南洋戦

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若者が聞いた南洋戦体験

向かい合う語り手と聞き手の目から同時に涙があふれた。語り手は柳田虎一郎さん。南洋戦・フィリピン戦の生存者である。聞き手は琉球大学の学生70名弱。学生同士の口コミで授業を受講していない学生も集まる中、柳田さんは自身の戦争体験を語った。

南洋戦とは、戦前日本の植民地だった南洋諸島での米軍と日本軍との戦闘。フィリピン戦とは、日本が米国を奇襲した真珠湾攻撃の直後に攻撃・占領した、米国の植民地フィリピンでの米軍と日本軍との戦闘だ。どちらも沖縄では実態があまり知られていない。

柳田さんは4歳のとき、通信士だった父親の仕事で、静岡から南洋のパラオ諸島のガスパン島に移り住む。冬の寒い静岡から暖かく静かなガスパン島へと来て、天国にいるような心地だったという。

沖縄出身の母親は料理が得意で、大量のサーターアンダギーを作って近所の日本人や地元住民に振る舞った。本土出身の日本人は初めて見る食べ物を不審がったが、地元住民は家に大勢来て喜んで食べた。

ガスパンで妹が二人生まれ、じきに次の子も生まれるという1944年9月頃、米軍が攻めてくるからと引き揚げを命じられる。6歳の柳田さんは臨月の母親、姉、妹二人とともに日本軍の巡洋艦に乗り込んだ。米軍の潜水艦の攻撃で巡洋艦は沈没。母親は、お腹の子のために用意していたおしめを割き、母子全員の体を浮袋にくくりつけた。血の海を漂っているところを日本軍のカッターボートに拾われ、フィリピンのミンダナオ島に上陸する。生き残った引き揚げ者は約180人中約80人だったという。

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