真の地獄だったフィリピン戦
これは始まりにすぎなかった。米軍がフィリピンを奪還しようと夜は海から、昼は空から攻撃を開始。ダバオにいた引き揚げ者たちは日本軍に置き去りにされ、不慣れな土地で情報もない中、のろのろと道づたいに山の方へ避難する。
米軍の機銃掃射で周囲の人間が倒れていく中、大きなお腹で食糧の入ったかばんを背負い、妹二人の手を引いて歩く母親も腰を撃たれる。柳田さんと姉は、真っ赤に染まった母親のモンペと道にしたたり落ちる血を見ながら、後ろをついていった。
母親はタグラノという部落にたどりついて男児を出産、「必ず日本に帰りなさい」という遺言を残して命尽きる。生まれたばかりの弟も、母乳を一度も飲むことなく、姉の手で川の水を飲まされて4日目に生を終えた。
柳田さんは後年、ダバオに母親の遺骨を探しに行く。だが地元住民から、日本人の骨は一緒に埋められた形見目当てに掘り出し、川に捨てたと言われたそうだ。
残された子供4人はジャングルの中に逃げ込む。木の上に実がたわわになっていても、幼い子供たちの手では届かない。すすきなどの野草をはみ、亡き母親が子供一人ずつに持たせていた仁丹で味をつけた泥水をすする。蛙や小さな蛇、いなご、みみずも食べた。闇夜に紛れて地元住民の畑から農作物を盗んだ。一緒になって農作物を盗んだ女性が、日本兵に襲われて銃剣で刺され、農作物を奪われたのも見た。「日本兵じゃない、畜生ですよ」と柳田さんは絞り出すように言った。
米軍が投降の呼びかけに来たとき、『生きて虜囚の辱めを受けず』の教えを叩き込まれていた日本人の中で最初に米軍の前に出ていったのは、3歳の妹だった。「みんな疲れてお腹をすかせているよ」という妹の言葉を聞いた、日本語の分かる米兵が妹にお菓子を持たせて帰した。その結果、引き揚げ者約30人は全員投降、収容所に入る。そして日本が負けたと知らされた。