「軍は住民を守らない」戦後75年と薄れる教訓

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住民をマラリア地帯へ強制疎開させた軍

八重山諸島では、日本軍よりもむしろ、非戦闘員である住民が、マラリアにかかって死んでいった。当時、石垣島や西表島の山岳一帯は、マラリア有病地帯として知られており、住民はマラリア地帯を避けて生活していた。

ところが、八重山諸島に駐屯していた日本軍は、沖縄戦の最中、石垣島の住民については島内のマラリア地帯へ、竹富島、波照間島、鳩間島などの住民については西表島のマラリア地帯へと避難するよう軍命を下す。米軍が、進軍しながらDDTを大量使用して、マラリア原虫を媒介する蚊を駆除したのに対し、日本軍は、マラリアの予防対策を行わないまま、住民の強制避難を行った。

避難先がマラリア地帯であることを知りながら、日本軍が住民を避難させた理由。それは、戦争の作戦遂行に住民が邪魔だという発想や、米軍が上陸してきた場合に、住民が米軍に情報を提供したり、スパイとなる可能性の危惧。そして、日本軍の食糧の確保などだった。

住民は避難にあたって田畑を捨て、軍に屠殺させられた家畜の肉のほとんどを徴発される。食糧難から栄養失調に陥った住民は、相次いでマラリアにかかり、命を落とした。当時の八重山諸島の人口約3万人のうち、半数超がマラリアにかかり、3647人が亡くなったとされる。波照間島の住民は、約3分の1がマラリアで死亡した。

米軍は八重山諸島に上陸しなかったが、空襲や艦砲射撃などで殺された住民は178人。これに対して、マラリアで死亡したのは3647人と、戦死者の20倍以上にのぼったのだ。

当時、八重山諸島の住民には、台湾出身者も数多くいた。日清戦争に勝利した日本は、中国から台湾を奪い、植民地とする。台湾と与那国島との間に国境がなかった、1895年から1945年までの間、台湾の人々は、仕事を求めて八重山諸島に移住した。

マラリアにかかって生きのびた台湾出身者は、「台湾の食文化と食材」に助けられたという。現地の住民から差別され、荒れ地を切り開いて生活しなければならなかった彼らは、耕作で日々の食糧を得ていた現地の住民と比べ、狩猟や採取によって食糧を得ていたことが、生存につながったのだ。

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