「安保」によって起きた事故を「全国紙」はどう扱ったか―沖縄国際大米軍ヘリ墜落事故報道の遅すぎる検証

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あれから16年になる。2004年8月13日、沖縄県宜野湾市にある沖縄国際大学の構内に、隣接する「アメリカ海兵隊普天間飛行場」を離陸した大型輸送ヘリが墜落した事故。沖縄のアメリカ軍基地がいかに危険であるか、を示す証左として今に語り継がれている。その重大さ、深刻さは言うまでもないが、私にとっては同じ日の出来事が、今も消し去れぬ悔恨として記憶に刻まれている。その日、新聞社内での会議の席上、「トップ獲得」の競り合いで敗れたこともそのひとつだが、それ以上に、私自身がこの事故で問うべきことの意味を十分理解できていなかったことがある。事故によって露わになったのは日本のメディアの実相でもあった。

ヘリ墜落の一報

 普天間飛行場は、沖縄本島中部・宜野湾市の中央にある。眺望のよい高台に位置し、市街地は飛行場の周りをドーナツ状に取り巻くように密集している。

 事故はその日午後2時過ぎに起きた。米海兵隊の大型輸送ヘリコプターCH53Dが普天間を飛び立った後、帰還する途中に操縦不能に陥り、隣接する沖縄国際大学の構内に墜落し、炎上する。ヘリは大破し、部品が周辺に飛散。ヘリの乗員3人が負傷した。

 当時、私は朝日新聞社の西部本社社会部次長(デスク)として福岡本部(福岡市)で勤務していた。新聞社の機構を簡単に説明すると、朝日などの全国紙は、東京、大阪、名古屋、福岡に4つの「本社」がある。新聞発行機能を備えた「発行本社」という意味で、それぞれの地域に合わせて紙面を製作している。福岡に中核機能を持つ西部本社は、山口県と九州、そして沖縄県を管轄している。

 ヘリ墜落の一報が福岡本部に入ったのは、午後2時半を過ぎたころだったと記憶している。背筋が凍り付き、血の気が引いていくのを感じた。その7年前まで那覇支局に勤務し、米軍機の墜落は何度か取材していたが、市街地の、それも大学構内に落ちるなどという事故は経験したことがなかった。真っ先に脳裏をよぎったのが、1959年6月に沖縄県石川市(現・うるま市)の宮森小学校校舎に米軍機が突っ込んだ事故だ。児童11人を含む17人が死亡(のちに後遺症で1人が死亡)、負傷者は200人以上にのぼり、基地被害を象徴する悲劇として知られている。

 筆舌に尽くせぬ惨事がまたしても沖縄で――。そう考え、暗然とした気持ちになった。

 社会部デスク席の周辺に記者たちが集まり、取材を始める。現場周辺に電話を入れて状況を聞き取り、現地の記者からは次々に情報が入ってくる。ヘリは大破して炎上。ローター(回転翼)などの部品が周囲に飛散。しかし、住民に死傷者はないらしい――。にわかに信じがたいと思ったが、負傷者はヘリ乗員3人のみで奇跡的に民間人にはけがはなかった。夏休み中で、大学構内にいた学生たちは炎を見て逃げ出した。はじけ飛んだローターが民家の前のバイクをなぎ倒し、部品が窓を破って、眠っている乳児の脇に落ちるなど、周辺一帯では間一髪で難を逃れた人も少なくなかった。

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