「日本一幸せあふれるまち」にミサイル部隊がくる――沖縄・石垣島でおきていること《市長選・前編》

この記事の執筆者

2、難航する一本化

「去年の3月ごろから地元市議団を中心に人選を進めてきた」。石垣市議会の野党議員、宮良操氏は振り返る。

石垣市の政治には、「本土」では死語になりつつある「保守」「革新」という言葉がまだ残っている、といわれる。1994年の市長選で初当選した大濱長照氏は社民・共産などが推す「革新」で、大濱市政は4期16年続いた。だが、2010年に自民・公明の推す中山氏が当選し、以後3回連続で「革新」は「保守」に敗れていた。

 「かつて公明党と『革新』は協力してきたが、中央での自公連立で公明が自民につくようになり、革新単独では勝てなくなった」と宮良市議。野党の市議らが考えたのが、革新を軸にしつつ、保守系の中から比較的リベラルな層を取り込む戦術だ。「保守」の中にも中山市政の長期化に対する不満はある。「革新」の主張のみにこだわるのではなく、「中道」的な考え方を取り入れ、幅広く共闘しよう、「革新」で戦うというよりも現在の市長を倒すという「大儀」のもとに新たな結集をしよう――という試みである。

引退した保守中道系の元市議らにも協力を求めて話し合いを進め、名前が挙がったのが、当時、市議だった砂川利勝氏だ。2002年の市議選で初当選し、4期務めた後、12年の県議選で当選。2期目の途中、18年の前回市長選で、保守系ながら中山市長の対抗馬として立候補。陸上自衛隊駐屯地の建設予定地である同市平得大俣は白紙に戻すことを掲げた。この時は、中山氏、砂川氏とともに「革新」から宮良市議が立ち、三つ巴の戦いは中山氏に軍配が上がる。

この時の得票数を見ると、中山氏1万3822票、宮良氏9526票、砂川氏4872票。

つまり、宮良氏の「革新」票に、砂川氏が得た現市政に対する「保守」の批判票を合わせれば、中山氏の得票を上回る計算になる。県議も務めた砂川氏は広く人望があり、野党市議らは期待を持って「保・革共闘」に向け、協議を進めてきた。だが、砂川氏は7月に死去。その後も同氏の後援団体「島づくり会」や、市民主導での市長選候補擁立のために設立された「『チェンジ市政』石垣市民の会」などと連携し、「4選阻止」に向けて候補者一本化の協議が続いた。

次に名が挙がったのは、元市議会議長の知念辰憲氏だった。市議7期。議長を2回務め、2018年に引退している。自民党市議として中山市政を支え、前回の市長選では中山市長の選対本部長も務めたが、多選については批判をしていた。自民ではあるものの、19年の住民投票条例案や21年の自治基本条例改正案など、近年、与野党が厳しく対立した案件の採決に関わってないことから、「革新」支持層からも反発は出にくいはず、とのよみもあった。

21年12月17日、中山市長は市議会で、4選を目指す考えを表明。同22日、野党市議と「『チェンジ市政』石垣市民の会」、砂川氏の後援会「島づくり会」、保守層の新たな受け皿づくりを目指す「ちゅら島の会」の「保革4団体」は、知念氏に正式に出馬を要請する。知念氏は「立場を超えた要請に石垣市が変わる新しい1ページになると感じた」(23日付八重山毎日新聞)と出馬に前向きな考えを示す。「革新」と「保守」が協力して「保守」の人物を推すという初めての試みが始まるように見えた。が、事態は二転三転する。

3、砥板氏の出馬

要請の翌日23日、知念氏は、出馬を辞退すると関係団体に伝える。理由は「身内の同意が得られない」。その代わりに保守側から挙がった名前が、砥板氏だった。想定外の事態に関係者は驚愕するが、年内の出馬表明を考えれば、もう1日の猶予もない。25日、関係団体が集まり、砥板氏を交えての話し合いになるが、異論が相次ぐ。

前津究(きわむ)市議は「政治信条を曲げてまで応援はできない」と退席。長浜信夫市議と革新系の会派「ゆがふ」の花谷史郎、内原英聡両市議の3人が態度を保留した。「石垣市民の会」共同代表の一人、嶺井善(まさる)さんも「陸自配備地の周辺4地区の代表であり、今は保留しかできない」と慎重だった。

結局、ほかの4人の野党市議らはこの日、砥板氏の擁立を発表。翌26日には、砥板氏本人が記者会見し、出馬を表明した。

地元紙の八重山毎日新聞(12月27日付)によると、会見で砥板氏は、問題になっていた市役所の新庁舎建設や島内のリゾート開発の問題を取り上げ、「(新庁舎建設を巡る問題で)ウソをウソで塗り固め、それが暴露されると開き直って正当性を平然とした顔で述べている」「開発を優先するあまり、自然環境を守っていく姿勢が見られない」と中山市政を批判。最大の争点は「独善的な現市政を継続するかどうか」と語った。一方で、自衛隊駐屯地建設については「再来年(2023年)春には開設される状況なので大きな争点にならない。住民の不安を払しょくできるよう、さらなる負担を強いられないよう、自衛隊から話や要請があればすべて開示して意見を聴きながら政策決定をしたい」と述べた。

あまりに急な展開に「革新」支持者からは「何か裏があるのでは?」との疑念の声さえ上がったが、土壇場で辞退した知念氏は取材にこう語っている。「中山市長は、議会で野次を飛ばしたり、人の話を聞こうとしなかったり。4期目は出るべきではない。ぼくは出馬する腹をくくっていたが、家族の理解がどうしても得られなかった」

市長選の舞台に躍り出た砥板氏は、どのような経歴の政治家なのか。石垣生まれの53歳。家業は市内で工事業を経営。「八重山青年会議所」理事長を務め、2010年の市議選で初当選し、3期目。自民党に属し、同じ年の市長選で当選した中山市長の「右腕」的な存在で、市政運営を議員の立場で支えてきた。日本最大とされる保守主義の政治団体「日本会議」の会員で、地元で自衛隊の誘致活動を進める「八重山防衛協会」の事務局長。市議会与党のリーダー格であり、陸自配備問題など近年の重要論点で、常に中山市政の側に立ってきた。

自衛隊配備計画をめぐり、2016年に市主催で開かれた公開討論会では、配備賛成の立場で登壇。「日本の安全保障に直結する問題」と述べて配備の必要性を訴えた。尖閣諸島近海での中国船の航行などを理由に「自衛隊の抑止力は必要」という考えだ。

名護市辺野古の埋め立てによる米軍基地建設の是非を問う県民投票が19年に全県で行われたが、その前年には県民投票条例案に反対する意見書を自ら市議会に提案し、可決させている。自衛隊配備を巡る石垣市の住民投票条例案は否決に回り、防衛省への市有地売却には賛成し、同市の自治基本条例から住民投票条項を削除する改正案にも賛成した。「極右」と呼ぶ市民さえいた。 

だが、その政治姿勢に変化が見られたのが、2021年9月議会での、市役所新庁舎の建設に関する質問だった。この年の11月に開所した新庁舎は、琉球の伝統を取り入れ、屋根一面に赤瓦が葺かれた壮観な趣が特徴だが、使用された約12万枚の赤瓦は沖縄産ではなく県外産であることが明らかになっていた。砥板氏は、なぜ県内の業者に発注しなかったのか、を追及。工事関連の請負契約額が大幅に増額されること、建設に携わった作業員の8割が島外から来ていたことなど、建設に関わる疑問点を挙げ、当局に厳しく問い質した。

この議会で野党側は、新庁舎建設の問題点を調査するため、地方自治法第100条に基づく調査権を付与した特別委員会(百条委)の設置を提案した。市議会は市政与党が多数派だが、砥板氏を含め一部の与党議員が賛成したため、百条委は設置されることになり、砥板氏も委員になる。中山市長から見れば「背信行為」である。

3か月後の12月議会一般質問は決定的だった。赤瓦調達での市当局の対応に強い疑問を示したうえで、「私は、この一般質問でもって与党の立場から離れ、どちらにも属さず、一議員として政治生命を失うことをいとわず、百条委員会市議として残りの職務の任期を全うしてまいりたいと思います」と述べた。八重山毎日(12月14日付)は「砥板氏、市長に決別宣言、百条委で徹底追及へ」と報じた。

このような経緯の末に、砥板氏は中山市長の対抗馬に立つことになる。だが曲折はなお続いた。

この記事の執筆者