「穀雨南風」⑯ ~ 防衛大転換と民主主義、そして哲学

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哲学なき安全保障と「日本人の我慢強さ」

哲学なき日本の安全保障は私たちをどこに連れていくのか。 

 先月、日本とイギリス、イタリアで次期戦闘機を開発することが発表された。航空自衛隊のF2戦闘機の後継として、2035年の配備を目指すという内容だった。共同開発によって技術を結集できること、さらに開発コストが抑えられることがメリットだという。

 それでも戦闘機を作るには莫大な投資が必要なため、この開発には将来の輸出も織り込まれていると見られている。浜田靖一防衛大臣は会見でこう語る。

「将来的な第三国への輸出について、まだ何ら決定したものではありませんが、イギリスが輸出を重視していることも踏まえ、今後イギリス、イタリアとも検討してまいりたい」

 戦闘機を輸出し共有すれば、そのあと何十年にわたってその国と深い安全保障の関係が築かれると、専門家は指摘する。平和を維持するための外交のツールになるという考えだ。さらに先細る日本の防衛産業を維持することにつながるとする指摘もある。もしそうだとしても、日本の戦後の歩みを考えると、いきなり戦闘機を輸出することをすんなり受け入れられる人がどれだけいるだろう。

 先月閣議決定された安保3文書の中で、政府は防衛装備品の輸出ルールを定める「防衛移転三原則」の緩和を掲げた。これは戦闘機の輸出も視野に入れてのことだろう。

さらに国会議員の中から、防衛移転の原則を見直して、廃棄予定の自衛隊の多連装ロケットをウクライナに供与するべきだという声も出ている。G7の議長国としてウクライナへの訪問を模索している岸田総理が、日本として踏み込んだ兵器供与をお土産として考えても不思議ではない。

もしそうなった場合、世論の反応はどうなるだろう。廃棄するくらいなら、という声も出るだろうし、G7で兵器を供与していないのは日本だけだから、ロシアを勝たせないためにも踏み込んだ供与もやむを得ないという声もでるかもしれない。

しかしこうした抗しにくい理由で、これまでのルールを変えてウクライナに供与し、その延長線上に戦闘機の輸出を視野にいれるとしたら、それこそウクライナの危機に便乗したと言われても仕方がないだろう。

今年初めに行われた朝日新聞の世論調査では、政府の敵基地攻撃能力の保有について「反対」が38%に対して、「賛成」が56%と上回った。北朝鮮の相次ぐミサイル発射、そして何よりウクライナの戦争が醸し出す不安感が、この数字に反映しているのは間違いない。防衛費倍増と反撃能力の保有など、安倍元総理もできなかったことをやっているという声も出るほどの転換を岸田政権が進められているのも、この不安感、そこから生まれるやむを得ないという空気が国民の間で広がっていることと無縁ではないはずだ。

ある安全保障の専門家が漏らした言葉が、今も耳に残っている。

「日本人は理念とか戦略を先につくってから、ものを始めることができない。既成事実を作ってから、それに合わせるように理念を変えていかなければ、この国は変わらないんですよ。ロシアがウクライナに侵攻したから、防衛費の倍増も実現できた。とにかく事実先行なんですよ、この国は。先に国会で議論してからということには、絶対にならない」

 阪神大震災や東日本大震災を現地で取材して感じるのは、日本人の我慢強さだ。日本列島が天災に見舞われ続けた歴史があるからなのか、起きたことを受け入れ、暴動もなく、避難所で整然と並ぶ姿は、海外から賞賛を浴びるほどだ。

 ただ同じように政治が進めることに対して、我慢強くいる必要はないはずだ。お上の国の意識から脱却しなければ、政治はそれをいいことに説明なしに既成事実ばかりどんどん進めていく。きちんと議論してそのうえで結論を出したのであれば、国民も納得できるし、歯止め論理もそこに組み込むことができる。しかし既成事実を追認するばかりでは、気がつくととんでもない所に連れていかれた、ということになりかねない。

 今週から国会では予算委員会がスタートする。これまで出番がなかった野党がこうした問題をようやく問える場を与えられるわけだが、政府からすると、方針を決めてアメリカにも報告して、最後の“儀式”ということなのだろう。つまり国会で根本的な議論をするのではなく、国会を乗りきる戦術の世界に入っていくのだ。

  もう一度、冒頭に書いた文章を繰り返したい。 私たちはなぜ議論によって互いの理解を深め、よりよい結論を導き出すことが得意ではないのだろうか。もしそうなら民主主義というものが、いまだ私たちの社会に根付いていないということなのだろうか。            

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