「穀雨南風」⑯ ~ 防衛大転換と民主主義、そして哲学

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既成事実化される南西諸島のミサイル配備

陸上配備型のイージス・アシュアをめぐる問題も混迷を極めた。もともとイージス艦の運用を抱える海上自衛隊の負担を軽くするという目的があったはずなのに、結局、陸上への配備は撤回され、陸上用のレーダーを護衛艦などの船上に置くという案に戻ってしまう。ぐるりと回って、海上自衛隊の負担がまた重くなる結論となった。費用も倍かかるという試算もある。

肝心の撤回の理由も、わかるようでわからないものだった。「発射したミサイルのブースターを安全な場所に落下させられない」という説明がなされたが、ブースターの落下リスクは最初からわかっていたはずだ。それを指摘されてあっさりと撤回するくらいなら、この計画自体を持ち出すべきではないだろう。

住民説明の際のデータが杜撰だったという不手際も重なったとはいえ、本当に必要だと考えているのなら、「確かにブースター落下の危険性はあるが、ミサイル落下の甚大な被害を防ぐためには陸上側は必要だ」と全力で説明すべきではないだろうか。そのために政治家がいるのではないのか。

それだけではない。当時の河野太郎防衛大臣がイージスアショアの陸上配備撤回を発表した、その3日後には、安倍元総理が唐突に、敵基地攻撃能力の保有を求める声が自民党内にあることにふれ、議論する考えを示している。陸上イージスの配備の撤回と、敵基地攻撃能力がどうつながるのか、その文脈もよくわからない。しかしこの発言が、敵基地攻撃能力の保有の声を勢いづかせ、今回の岸田政権の決定につながっているのは間違いないだろう。

 沖縄の南西諸島へのミサイル配備をめぐる一連の動きでも、どれだけきちんと説明がなされたのだろう。

去年4月、陸上自衛隊のミサイル部隊を取材するために宮古島を訪れた。住民の方々に話を聞くと、米軍に対してのような拒絶感は自衛隊には薄いとはいえ、漠とした不安を拭えないようだった。しかも多くの住民は狭い島の中でのしがらみもあって、ものが言いにくい空気も感じられた。ただ地元配備への説明については、怒りを隠さない住民も少なくなかった。

防衛省は4年前に宮古島に駐屯地を置いたが、当時の報道を見ると「小銃弾や発煙筒などを保管する」と住民に説明していた。中国を意識して駐屯地に置く意味を考えると、小銃だけですむはずはない。実際、おととしになって防衛省は、ミサイルの弾薬などを宮古島に搬入する。話が違うと住民が怒るのも無理はない。

なぜ最初から正直に言わずに、既成事実をつくる形でことを進めるのか。言ってしまうと、駐屯地を置くことすらできなくなると恐れたのかもしれない。しかし中国の脅威を抑止するために必要と考えての配備ならば、なぜミサイルを置く必要があるのかを、正面から住民に説明する必要があるはずだ。ここでも政治は説明から逃げている。

去年4月に行われた宮古島の自衛隊駐屯地での12式地対艦ミサイルの発射訓練

 ロシアの軍事から世界の安全保障を見続けてきた小泉悠さんは、日本の安全保障には哲学がないと指摘する。たとえば南西諸島へのミサイル配備をめぐって、私の担当する番組でこう語った。

「大きな国家という括りで言えば日本のためと言えるかもしれない。しかし実際にそこで暮らしている人からみると、基地がなければ攻撃されないんじゃないかと思うのは、否定してはいけない素直な感情だと思う。私はミサイルを置かなければならないと思う。南西諸島防衛はやらないと、有事のときに中国の海上優勢、航空優勢の下で戦わなければならなくなる。だからこそ、何のために置くのかを住民レベル、国民レベルで議論しなくてはだめだと思う」

 そう言ってから、さらに続けた。「ウクライナの戦争で明らかになったのは、政府のやることを最終的に国民がどのくらい支持するかが、危機の時にはものすごく大切だということ。ウクライナがあれだけロシアにやられながらそれでも戦っているのは、政府と国民が覚悟を共有しているからではないか。一方のプーチン大統領が動員令をなかなか出せないのは、戦争の大義を国民に説明できないからですよね。同じようなことが日本でも起こりえないか、非常に心配です。リスクはある、リスクはあるけど、こういう理由で置かざるを得ないんだと説明すべきだし、そういう意味で、日本の安全保障に哲学が必要だと思う」

 小泉さんは、自分はロシアの専門家なので、あくまで一国民としての思いだと付け加えた。 

 両親は反戦・反核運動に熱心だったと、小泉さんは去年8月、朝日新聞「GLOBE」のインタビューで語っている。このため小泉さんは日本の安全保障について考えるときは、まず両親をどう説得すればいいか考えるという。安全保障の専門家の中には異議申し立てする人を素人扱いして切り捨てる学者もいる中で、彼が住民への説明を重視するのは、こうした思いもあるのだろう。

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