断絶が生むトラウマ、共有できない痛み

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沖縄が外界に翻弄されるのは「琉球」だった時代から変わらない。『琉球をめぐる十九世紀国際関係史』は1854年に米国のペリー提督と琉球の間で締結された「琉米修好条約」を、同時期の日米和親条約などと並ぶ主権国家間の「条約」と翻訳するのは誤りだと指摘する。

この締結文書は、双方が主権国家であることを明記せず批准書の交換もない、同年代の米外交文書としては唯一の形式で、名称も「Treaty」や「Convention」ではなく、「Compact」(コンパクト)と記された別物だという。

日米和親条約の交渉中、ペリーは琉球の開港も要求の一つに入れていたが、江戸幕府からは「遠方」を理由に退けられる。そこで琉球との条約締結に動いたものの、琉球側は中国との関係を理由に条約草案の前文に主権国家と明記されることを拒否。残された滞在期間で「開港」の成果を確保したかったペリーは、前文すべてを削除した契約書を琉球に調印させた。本国には米国の「州」に相当する相手と交わす「コンパクト」に調印したと報告する苦肉の策で議会承認を得た。

ペリーにとっても米国にとっても、西欧的な国家観・国民観では琉球が独立した主権国家なのか、日本あるいは中国に従属しているのか、最後まで判断を下すことができなかったと考えられるという。

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