普天間基地「返還問題」の起源を探る~その②~

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沖縄戦の最中に建設された普天間基地は、1970年代に入る頃から機能が強化された。今回は、こうした中で、地元で普天間基地返還を求める声が高まっていく過程についてみていきたい。

 

宜野湾市の普天間基地返還要求

 

1960年代以降、沖縄本島中部の要衝である宜野湾市では都市化が進んだ。宜野湾市の人口は1965年の35000人から1975年には約55000人、1980年には約63000人へと増大する。なお、普天間小学校の過密化から普天間第二小学校が暫定的に設置されたのが1969年、校舎の一部が建設されたのは1970年のことだった。しかし、それまであまり使われていなかった普天間基地の機能が強化され、騒音被害が深刻になったのはまさにこの頃からだったのである。

19736月、宜野湾市は、市の面積の約4割が米軍基地に占められており、都市計画や交通体系、住民福祉の障害になるとして、米軍基地の返還を要請している。もっともこの時点では、「広大な基地の解放には多くの時日を要するものと思われ」るとして、基地の即時返還を求めてはいなかった。

しかし普天間基地の役割が増大する中、騒音被害や事件・事故も頻発していた。197212月には、米軍機の燃料タンクが基地近くに建設中の沖縄国際大学に落下した。1980102日には、普天間基地の滑走路で米軍機が訓練中に墜落し、乗員1名が死亡する。1982819日には、訓練中の輸送ヘリが同基地の滑走路に墜落している。これは普天間第二小学校の200メートル先でしかなかった。この時期には普天間基地の外でも同基地所属のヘリが墜落や緊急着陸、不時着を繰り返している(『宜野湾市と基地』昭和59年)。こうした中、1980年に宜野湾市は普天間第二小学校の移転を検討し始める。

さらに、198310月、宜野湾市が地元として初めて普天間基地の返還を要請する。きっかけとなったのは、19837月に米軍攻撃機Aスカイホークが普天間基地に移駐したことだった。ジェット機であるAスカイホークが夜間に飛行訓練を繰り返したことで、市民の間で基地被害・事故への不安が高まり、基地返還要求が強まったのである。

こうして1983108日、宜野湾市の安次富盛信市長が、西銘順治沖縄知事に普天間基地の移転を要請した。安次富市長は、次のように訴える。「普天間飛行場は市街地のど真ん中に位置し、本市の発展に大きな障害になっているばかりか、米軍ヘリや各種航空機の離発着訓練、演習等が昼夜頻繁に行われ、それから発生する爆音被害は恒常化しており、市民の物的、精神的障害は計り知れない」。その上で安次富市長は、普天間基地を「安全な場所に移転させてほしい」と要請したのである。(『宜野湾市と基地 昭和59年』)。

 

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