普天間基地「返還問題」の起源を探る~その②~

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西銘沖縄県知事の普天間基地返還論

 

実は当時、沖縄県知事であった西銘順治も1982年の再選にあたって普天間基地返還を掲げていた。西銘は、自民党の保守政治家であり、日米安保・自衛隊を支持していた。なお、宜野湾市の安次富市長も、自民党の保守政治家であった。その後、西銘知事は、1985年と1988年には訪米して米国政府に普天間基地返還を直接要請する。なぜ保守政治家の西銘が、普天間基地返還を唱えたのか。

西銘は、沖縄県知事になる前には那覇市長や衆議院議員もつとめた有力政治家である。1968年以来、屋良朝苗、平良幸市といった革新系の知事は、日米安保反対、基地撤去を訴えてきた。これに対して西銘は、当時厳しい不況の中にあった沖縄経済を日本政府による財政支援によって立て直すことを最重点課題に置き、1978年の沖縄県知事選挙で勝利した。こうして西銘は、県政一期目の時期は、経済振興に重点を置き、基地問題については、整理縮小よりも、米軍による事件・事故への対応に専念した。日米両政府も、このような西銘の県政運営を高く評価していた。(野添『沖縄返還後の日米安保』)。

しかし西銘は、再選をかけた198211月の沖縄県知事選挙では、積極的に米軍基地の整理縮小を掲げる。公約で西銘は、米軍基地は「振興開発の推進さらに県民生活向上の上からも大きな阻害要因」だとして、「基地の整理縮小を推進する」という方針を示した。そして西銘は、インタビューで「普天間飛行場等の都心部に位置している基地等については、これを移設していきたい」と発言する(『琉球新報』1982119日)。再選後も西銘は、「都心部に位置している普天間飛行場等、市町村の再開発のじゃまになるような基地は、のけてもらう」との考えを示している(『琉球新報』19821116日)。

二期目以降の西銘の方針の変化にはどのような背景があるのか。一つは、公約でも述べているように、西銘が重視する沖縄の振興開発のためにも、米軍基地が大きな障害になっていたことである。第二に、米軍基地に対する沖縄県内の世論である。保守県政を誕生させたとはいえ、沖縄県民は、基地の縮小を強く望んでいた。1982年の世論調査では、米軍基地について「全面撤去」「本土並みに少なく」と回答した人は、77%に上っていた(河野啓「本土復帰後四〇年間の沖縄県民意識」『NHK放送文化研究所年報2013年』)。

こうした中、西銘は、沖縄の経済発展のために重要な位置にあり、米軍関係の事件・事故が頻発する中、普天間基地の返還を主張するようになったといえる。また、西銘県政の元幹部によれば、西銘は、米軍による事件・事故が多いことや、宜野湾市が人口過密であることを問題視しており、「嘉手納基地もあることだし、普天間基地はいらないんじゃないか」と述べていたのだった。

(以下、次回に続く)

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