普天間基地「返還問題」の起源を探る~その③~

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1980年代に入って普天間基地返還問題が沖縄で政治論点化する中、西銘順治県知事は1985年と1988年に訪米し、米国政府に対し普天間基地返還を直接要請する。今回は、この西銘訪米を検討し、沖縄で求められていたのは何だったのかを考える。

 

1985年の西銘県知事訪米

 

198411月、西銘知事は、記者会見で「沖縄の基地が過密で、それゆえいろいろな基地問題が派生している」と述べ、訪米して米国政府に直接基地問題の解決を訴える方針を示した。この背景には、当時、米爆撃機B52の相次ぐ飛来、米兵による住民殺害事件など、米軍関連の事件が多発していたという事情があった。当時の知事公室長・国吉真賜によれば、「現地軍と交渉したが、らちがあかない」と考えられたのである(琉球新報社編『戦後政治を生きて―西銘順治日記』琉球新報社、1998年)。なお、沖縄県知事が訪米して基地問題の解決を要請することは現在では珍しくないが、西銘訪米はその初の試みであった。

西銘は、19855月から6月にワシントンを訪問し、ワインバーガー国防長官、アマコスト国務次官、アーミテージ国防次官補などと会談する。西銘は、ベトナム戦争の終結、米中・日中関係の改善など国際情勢が好転しているにもかかわらず、沖縄に米軍基地が集中し、「都市経済、産業振興の障害になっているし、被害も大きい」と訴えた。その上でキャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブでの演習の中止、普天間基地や那覇軍港の移設などを求めた。西銘は、日米安保を支持しながらも、「せっかくアメリカまで来たのだから、思いきったことを言わないと問題の早期解決にはならない」と覚悟して様々な要請を行ったのである(『琉球新報』198569日)。

 

1988年の西銘県知事訪米

 

西銘は、198611月の沖縄県知事選挙で三選を果たす。しかし、この間も西銘は、県道104号線越えの実弾射撃訓練など基地問題に悩まされた。こうした中、19884月、西銘は再び訪米する。訪米前、西銘は基地問題について「政府だけにまかせておけない」と述べている(琉球新報1988422日朝刊)。また西銘は、「基地問題は県政の中心課題」であり、「保守、革新を超えて解決に努力しないといけない」と発言している(『琉球新報』1988418日朝刊)。西銘は、保革を越えた、いわば「オール沖縄」で基地問題に取り組む必要があると考えていたのである。

訪米した西銘は、カールーチ国防長官やアーミテージ国防次官補、グレイ海兵隊総司令官らと会談する。ここで西銘は、「今後とも日米安全保障体制を踏まえた日米友好協力関係をより緊密にするためには、沖縄県民の不満を解消するとともに県民との摩擦を避けることが最も肝要」だと訴えた。その上で西銘は、「狭い沖縄県内で新たな代替地をみつけることは不可能に近い」として、米軍基地の整理縮小について全面的な見直しを求める。また西銘は、普天間基地について、土地利用や産業振興、さらに騒音や危険の問題から、その「早期返還」を要望した。

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