普天間基地「返還問題」の起源を探る~その③~

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注目すべきは、西銘が、米軍基地の「移設なき返還」を求めたことである。1972年の沖縄返還実現以降、しばしば沖縄米軍基地の整理縮小が日米両政府によって合意されてきたが、そのほとんどが県内移設条件であり、移設先が決まらないで返還されない基地が多くあった。その最大のものが、1974年に返還合意された那覇軍港である(現在も未返還)。西銘は、「余程条件整備をやるか地域住民の支援がないとできない」として、「リロケーション(移設)前提は事実上不可能」で「沖縄に移転先をみつけるのは困難」だと考えていたのである(『琉球新報』1988416日朝刊)。

これらの二度にわたる西銘訪米は、ただちには成果をもたらさなかった。しかし、19959月、米兵三人による少女暴行事件が起こった時、米国では、かつて国防次官補をつとめ、西銘訪米の際に応対したアーミテージが、国防省に普天間基地返還を主張した。ペリー国防長官が、普天間基地返還を決断した背景には、知日派のアーミージの助言もあった(船橋洋一『同盟漂流 上』岩波書店、2006年、山本章子「米国の普天間移設の意図と失敗」『沖縄法政研究』20172月)。西銘の訪米は、こうした形で1996年の日米両政府による普天間基地返還合意に影響を与えたのである。

 

沖縄側の要求は「移設なき返還」

 

ここまで、普天間基地「返還」問題がどのように沖縄で政治論点化していったのかを見てきた。まず、沖縄戦の最中に、住民の生活する集落を破壊して造成された普天間基地の「出自」こそが、この問題の原点に他ならない。1970年代以降に普天間基地の機能が強化され、事件・事故が多発する中で、危険性の除去や沖縄の経済振興のために地元の宜野湾市や沖縄県で基地返還が公に要求されるようになった。さらに西銘県知事が、二度にわたる訪米によって、普天間基地返還を米国政府に直接訴えた。西銘は、日米同盟の安定という観点からも、基地負担への沖縄県民の不満を解消すべきだと考えていた。

今日、日本政府は、普天間基地の危険性除去と普天間基地が返還された場合の経済発展を根拠として、普天間基地の辺野古移設を推進している。しかし、これらは、すでに1980年代には沖縄県内で唱えられていた。しかも、西銘が二度目の訪米で主張したのは、「移設なき返還」であった。西銘は、那覇軍港の例のように県内移設条件の返還は不可能であると認識していたのである。

以上の点を踏まえると、沖縄側の要求を、日米両政府は、最初は無視し、その後は辺野古移設を条件にして沖縄側の反発を引き起こし、基地の「返還」を事実上遠ざけてきたといえる。普天間基地の危険性が改めて明らかになる中、沖縄側が求めていたのは、普天間基地の「移設なき返還」であったことに立ち返って、この問題を考える必要があるのではないか。()

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