【インタビュー】宮本亜門さんと沖縄【上】

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世界を舞台に活躍する演出家、宮本亜門さん。その亜門さんが沖縄を舞台に映画を撮り、自宅を建てて東京と行ったり来たりの生活をするなど、沖縄と深く関わっていることはよく知られている。ところが沖縄の家を売りに出すことに決めた亜門さん、そこにはどんな思いがあるのか。2018年(14)に還暦を迎える宮本亜門さんに、沖縄への思いを聞いた。【聞き手=松原耕二】

 

沖縄との出会いは音楽

 

松原)亜門さんが2004年にブロードウェイでミュージカル「太平洋序曲」を演出されたとき、私はTBSのニューヨーク駐在員。それからのおつきあいですが、きょうは改めてじっくりお話を伺いたいと思います。まず、沖縄との出会いを聞かせてもらえますか?

 

亜門)最初は1993年、ネスカフェのCMの撮影でした。「沖縄に惚れて、一息つく」という設定だったのですが、沖縄に行ったこともない自分がその役割を「演じる」ことに、どこか後ろめたい気持ちがありました。でも、このごく短期間のホテル滞在時に、琉球音楽や人々に触れ、一瞬で沖縄に惚れ込んでしまいました。ここには、ホッとする安らぎがあり、音楽には天上界にいるような旋律に聞こえたんです。これ、日本じゃないなと。最初はそこに興味を持ったんです。

 

松原)日本じゃない?

 

亜門)うん。全く違う、異国の感覚があって。それがきっかけで、もっとちゃんと知りたいと思って、自分で旅行したんです。37歳のときでした。実はそのころ、仕事で息苦しさを感じていました。29歳で演出家になって、いろんな舞台もやれるようになって、どんどん忙しくなりました。その反動からか、スケジュールが埋まっていることだけがいいと思わなくなってきていて……。そんな思いも抱えながら、音楽をきっかけに惹かれていた沖縄に通うようになりました。

 

いきなり浴びた洗礼

 

亜門)沖縄本島中部の西海岸に面した読谷村で、ふらっと不動産屋さんを訪ねたことがあります。軽い気持ちで「このへんの海の近くで借りられる家はありますか」と尋ねたら、「ヤマトンチューに貸す家、土地なんてないよ」とバシっと言われたんです。それ以上、何も口をきいてくれなくて……。

 

松原)それって、亜門さんと分かっててですか。

 

亜門)分かっていません。顔見ないで言われたんです。僕のしゃべりはヤマトンチューだから。「うわ、こわいところだなー」と。そのときは、まだ真剣に家を探しに来たわけじゃなく、ちょっと言ってみただけ、だったのですが。今思い起こすと、読谷村内にある米軍施設「楚辺通信所」(通称・象のオリ)の賃借契約期限切れ問題(*)の渦中で、村内はピリピリしていた時期だったのだと思います。当時はそのことに十分考えが及ばず、「これは、生半可な所じゃないな」と受け止めました。

でも、あちこちドライブしていると、人は優しいし、市場のおばさんたちは、「あんた、違い分かるんだって」って。だったら、野菜あげるよ、みたいな感じで会話が進んで、めちゃめちゃ親しみがある。

 

松原)ネスカフェの「違いがわかる男」のCM見てたんですね()

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