【インタビュー】宮本亜門さんと沖縄【上】

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「幸せのモノサシ」が違う

 

松原)沖縄社会に身を置いて、居心地は悪くなかったですか。

 

亜門)ある意味で、僕にとっては居心地がいい緊張感でした。ニューヨークでもロンドンでも海外に滞在していると、必ず差別意識や価値観の違いにぶつかりますから、自分の中ではかなり訓練されています。だから、ここ(沖縄)は外国だと思えば、それは当然。でも、沖縄は同じ日本なんです。何でなの? という気持ちも当然わきます。しかし、そのうち同じだと思う自分が本土の価値観を押し付けているんじゃないかと考えるようになりました。あまりにも異なる長い歴史を歩んできたからです。

沖縄戦の戦跡が数多く残る沖縄本島南部を初めてドライブしたときは、不思議な感覚に襲われました。過去と現代の分離感、とでも言うのかな。なんか時々ぞっと身体が震えるんだけど、ホッとする。この両方があったんだけど、南城市の玉城(たまぐすく)あたりに来たとき、素晴らしい自然に接してなんかちょっと楽になったんですね。

 

松原)亜門さんが後に家を建てることになる場所ですね。

 

亜門)そうです。でも、読谷村の不動産業者から浴びた厳しい言葉もそうですが、戦争のリアルな傷あとが残る土地で感じるある種の恐怖感も、僕にとっては必要だと思いました。舞台を作っていくうえで、人間の本質はなんぞやいうことに興味があるからでしょう。いろんなものを全部含めて、知っておきたいという思いもありました。

僕は沖縄の自然も、人も、食べ物も好きなんだけど、リゾート感覚でただゆったりくつろぎたいと思ったから住んだわけではないんです。やっぱり、東京にいて、一面的なものの見方しかできてないじゃないかと。裸の王様になるのが嫌だというのがずーっとあって。沖縄は最も近いところで最も違う国のようなものに僕は思えたんです。沖縄の人たちと東京で生きてきた自分とは価値観というか、「幸せのモノサシ」が違うと感じました。お金や地位や名誉、社会的な肩書といった価値観ではなく……うまく言えないんですが、例えば、島にふうーと風が吹く。すると、ごく自然に「この風、気持ちいいねー」という会話をおばあさんたちと交わすんです。いま生きていることの、どこを幸せと感じるか。その感度のセンスが、どうも違うような気がしてきたんですよね。沖縄で彼らと穏やかにしゃべっているときの喜び。あの自然と近い人間本来の感覚は、東京で味わったことはないです。

 

松原)最初に読谷村で「ヤマトンチューに貸す家、土地なんてないよ」と言われたけど、亜門さんは結局、沖縄に移住しましたね。沖縄の人たちに、受け入れられたなと思うときはありましたか。

 

亜門)受け入れられたと思ったことは正直ありません。僕もそこに期待していなかったから。「亜門さんは沖縄に溶け込んで幸せにやっていますよね」ってよく言われたけど、冗談言い合ったり、一緒にカチャーシーを踊ったりするのは最高だけど、沖縄の人と完全に一緒になろうとか、なれるとは思っていません。これは沖縄を否定するというのではないんです。

<【下】に続く。>

(*)楚辺通信所の賃借契約期限切れ問題…1995年、一部の地主が賃借契約の更新を拒否。当時の大田昌秀知事も土地強制使用の代理署名を拒否したことで、一時的に日本政府による不法占拠状態になった。同施設は現在、返還されている。

 

【宮本亜門さん略歴】

1958 東京・銀座生まれ。ミュージカル、ストレートプレイ、オペラ、歌舞伎等、ジャンルを越える演出家として国内外で幅広い作品を手がけている。2004年 ニューヨーク、オン・ブロードウェイにて、ミュージカル「太平洋序曲」を東洋人初のブロードウェイ演出家として手がけ、同作はトニー賞4部門でノミネートされた。20183月にフランスのラン国立歌劇場で三島由紀夫原作、黛敏郎作曲のオペラ「金閣寺」を上演予定。

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