ペリーは何を語ったのか~「元米国防長官・沖縄への旅」を読み解く【その5】

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ペリー発言を読み解いてみると・・・

 

しかし、文言をより細かく見ると、「朝鮮半島などでの「周辺有事」の際に…」<傍線は筆者(宮城)による>と記されており、朝鮮半島に限定した話として述べているわけではないことが分かる。

事前協議をめぐる密約は、「朝鮮議事録」という名称からも分かるように朝鮮半島に限定されたものである。従って、ペリーは密約に基づいて朝鮮有事の際の在日米軍基地の自由使用を主張しているわけではないように見える(このような解釈は本来、英語の原文に基づくべきなのは言うまでもないが、同書については管見の限りでは日本語版のみが刊行されており、本稿では日本語版に基づいた解釈を行った)。

ここでのペリーの回顧の力点は、むしろその後の記述、すなわち、「時の日本政府にきちんとその旨を説明し、全面的な理解を得たうえで、支持してもらわなくてはならない」という箇所におかれていることは明らかである。たとえ朝鮮半島有事を例外とする密約があろうがなかろうが、実際に有事となった際には、在日米軍基地からの戦闘行動については、日本政府の同意を取り付ける必要があるというのが、ペリーの政治的判断であったということであろう。

その判断の意義を考えるには、逆の事態を想定してみればよい。有事の際、日本政府が強硬に反対する中で、在日米軍基地を出撃基地として円滑に使用することができるだろうか。大いに疑問である。ここでのペリーの回顧は、その政治的判断の穏当さを物語るものだといえよう。

 

沖縄返還交渉で密約は消えたか

 

そのような政治的判断の妥当性とは別に、ここでのペリーの回顧は別の論点に結び付く。それは朝鮮半島有事を事前協議の例外とするという密約(「朝鮮議事録」)が、果たしていつまで存続していたのかという問題である。

1960年の安保改定の際、事前協議制度が設けられたことに伴って作成された「朝鮮議事録」だが、後述のようにその後、沖縄返還交渉に伴って無効となったと見なされることも多い。しかしその一方で、冷戦後の1990年代後半まで存続していたという指摘もなされている。

1994年の時点でペリーが「密約」を認識していたのか否かは、「朝鮮議事録」が果たしていつまで存続していたのかという論点に密接に関わるのである。

「密約」という言葉には、独特の響きがある。ときには密約を司り、駆使するのが戦略的外交だと思われるかもしれない。しかしながら、実際には密約の実効性には疑問符がつくことも多い。密約の多くは、交渉の最終段階でなお妥結に至らない問題点について、それぞれの国内諸勢力を納得させるためなど、やむを得ない理由によって交わされるというのが実情であろう。

日米安保をめぐる密約についても、日本外務省は多くの場合、それを公式の取り決めに移行させることに心血を注いできた。おどろおどろしい響きを持つ「密約」だが、所詮、それは密約なのであり、表に出ている公式の取り決めと比較した場合、その効力からいってもはるかに脆弱なのが通例なのである。

特に「朝鮮議事録」については、「日米対等」を目指した事前協議に密約という形で例外を設けざるを得なかったことは、日本の外交当局にとっても、不本意なことであった。そうした中、1960年代後半になって本格化に動き始めた沖縄返還交渉に際して、日本政府、外交当局は、この事前協議と朝鮮半島有事をめぐる密約を解消しようと試みる。しかしなぜ、沖縄返還交渉と「朝鮮議事録」が結びつくのか。次回はその展開を追ってみよう。

(以下、次回につづく)

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