第一次北朝鮮核危機の最中、米国国防長官として日本側に朝鮮半島有事の際の基地使用許可を求めたペリー。一方で日米安保条約には、朝鮮半島有事を事前協議の対象外とする「密約」があった。果たしてペリーは密約をどのように認識していたのか。そして、そもそも「密約」は有効だったのだろうか。
「密約」は認識されていたのか
1960年に現在の日米安保条約が結ばれた際、朝鮮半島有事については事前協議の対象外とする「密約」(具体的には「朝鮮議事録」と称する文書が作成された)が結ばれたことは、前回述べた通りである。
その観点からすれば、第一次北朝鮮核危機が進行中の1994年4月、ペリーが次期首相の羽田孜に対して、在日米軍基地の使用許可を求めたことは奇異に感じられるかもしれない。そのような許諾を日本側に求めなくても済むように設けたのが、この密約に他ならないからである。この点について、果たしてペリーはどう認識していたのだろうか。
「日本経済新聞」連載の「私の履歴書」をもとにした『核なき世界 私の履歴書』(日本経済新聞出版社、2011年)の中で、ペリーは以下のように記している。「もちろん、日米安全保障条約第六条では、朝鮮半島などでの『周辺有事』の際に我々が日本の米軍施設を使用することを認めている。ただ、実際にそうなった場合、やはり時の日本政府にきちんとその旨を説明し、全面的な理解を得たうえで、支持してもらわなくてはならない」(同書111頁)。
ちなみにペリーはこれとは別の回顧録として、William J. Perry, My Journey at the Nuclear Brink, Stanford University Press, 2015も記しているが、こちらには第一次北朝鮮核危機をめぐる日本への言及は、ほぼ皆無である(なお、同書はウィリアム・ペリー『核戦争の瀬戸際で』(東京堂出版、2018年)として、日本語版が近日中に刊行される予定である)。
そこで、上述した『核なき世界 私の履歴書』におけるペリーの回顧である。「もちろん、日米安全保障条約第六条では、朝鮮半島などでの『周辺有事』の際に我々が日本の米軍施設を使用することを認めている」というペリーの記述からは、事前協議制度の存在がすっかり抜け落ちている。日本としては、その種の基地使用を自動的に認めるわけではなく、そのための事前協議なのである。朝鮮半島有事については適用外とするという密約が存在するので、ペリーの回顧には事前協議についての言及がないのだろうか。