ペリーは何を語ったのか~「元米国防長官・沖縄への旅」を読み解く【その7】

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細川護煕、羽田孜とつづいた非自民連立政権は、第一次北朝鮮核危機に直面することになった。この危機の最中、外務省は水面下で当時、野党であった自民党に接近し、緊密な連携を模索する。政党政治、民主主義による外交・安全保障政策の統制はいかなるものであるべきか。今日につながる重要な問題が浮かび上がる。

野党・自民党との連携を模索する外務省

 

第一次北朝鮮核危機が進行中の1995年4月、米国防長官として来日したペリーは、細川首相の辞意表明後、次期首相に内定していた副総理兼外相の羽田孜との間で、有事となった際の在日米軍基地の使用について、実質的な事前協議を行った。
このとき、「有事対応」をキーワードに、水面下では政界再編の暗闘が繰り広げられていたことは、本連載【その2】で触れた通りである。その一方、野党に転落していた自民党をめぐって、密やかな動きが始まっていた。
非自民連立政権が多くの与党からなる「寄り合い所帯」であり、かつ、議席の上では社会党が最大勢力であることから、外交・安全保障政策、とくに危機対応について迅速かつ有効な対抗がとれないのではないか。そう危惧する外務省は、野党に転落していた自民党へのアプローチを模索する。ターゲットに選ばれたのは、政策通として知られた橋本龍太郎であった。
当時、自民党の政調会長であった橋本は、この状況をこう振り返る。「当時、北朝鮮の核ミサイル疑惑が頂点に達し、場合によっては経済封鎖ということが事実問題として議論されていました」「そのときに(外務省の)齋藤(邦彦)事務次官のほうから極秘でご相談を受けたのが、連立政権のなかでなかなか議論が収斂しない、と。むしろ野党自民党がいろいろなラインに対応する戦略的な、いわば外務省のパートナーをしてくれないかと」(五百旗頭真・宮城大蔵編『橋本龍太郎外交回顧録』岩波書店、2013年、53-56頁。以下の橋本の証言も同じ箇所からの引用である)。
具体的には、どのような形で野党・自民党と外務省との「連携」が展開されたのであろうか。橋本によれば、細川政権の時期に「(自民)党の政調の副会長クラス、町村信孝くんとか津島勇二くん、額賀福志郎くん、あるいは今度退かれた参議院の岡野裕くんとか数名で、「どこまで役に立つか分からないが」ということで、毎週ブリーフを受けながら」会合が始められ、週に一回程度、羽田政権時までつづいていたという。

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