2018年4月12日、1996年の「普天間返還合意」から22年を迎えた。生まれた子供が大学を卒業するほどの年月の間、沖縄の基地や普天間飛行場をめぐる議論や状況は、どのように変わったのか、あるいは変わってないのか。そこで本稿では、この22年間の4月12日の沖縄二紙の報道を定点観測しながら、「普天間返還合意」の紆余曲折を振り返ってみたい。
1996年4月12日
この日、橋本龍太郎首相は次のように発表した。
「普天間飛行場は、今後、5年ないし7年ぐらいに、これから申し上げるような措置が取られた後に、全面返還されることになります。すなわち、普天間飛行場が現にはたしている非常に重要なその能力と機能を維持していかなければならない。そのためには、沖縄に現在、既に存在している米軍基地の中に新たにヘリポートを建設する。同時に、嘉手納飛行場に追加的な施設を整備し、現在の普天間飛行場の一部の機能を移し替え、統合する。また、普天間飛行場に配備されている空中給油機を岩国飛行場に移し替える。」
県内移設の是非
1997年4月12日、在沖米軍との軍用地契約に代理署名する権限を沖縄県知事から取り上げる、駐留軍用地特措法の改正案が、前日の衆議院本会議にて圧倒的賛成多数で可決されたと報じられた。大田昌秀知事が、沖縄米軍基地の固定化に抗議して、代理署名に拒否したことを受けての措置だった。改正案は17日に成立した。
この日の地元紙は、県内の水産業団体が、普天間代替施設の移設候補先とされる名護市沖での、海上ヘリポート(SACOで最終的に合意された代替施設案)の建設調査に賛成したことにも触れた。すでに、比嘉鉄也名護市長や大田知事も、調査を許可していた。調査は5月から開始され、8月には県の許可を得てボーリング調査も始まる。
12月の移設受け入れの是非を問う名護市民投票では、反対多数の結果となったが、比嘉鉄也市長は受け入れを表明して辞任した。直後の名護市長選では、受け入れを認める岸本建男市長が当選した。
1998年4月12日の地元紙は、大田知事が同年2月に普天間飛行場の県外移設を打ち出した背景を分析した。既存の基地への統合なら県内移設もやむなし、という現実路線だった吉元政矩副知事が、1997年10月に議会から再任を否決された後、読谷村長として基地の整理縮小をなしとげた山内徳信出納長が、大田知事を補佐してきた影響が指摘された。