普天間移設22年の定点観測【その1】

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移設計画の決定

 

1999412日には、前年11月の沖縄県知事選で当選した稲嶺恵一知事が、普天間返還の早期「解決」を強調しながらも、「今世紀中のめど」を求める宜野湾市長の発言について、「意気込みと現実は違う」と述べたことが報じられた。

同月末には、訪米直前の小渕恵三首相が、2000年のサミット会場の1つに沖縄を選定する。沖縄県は11月、稲嶺知事の選挙公約である「軍民共用」「15年使用期限」などを条件に、辺野古沿岸地域への移設を認めた。名護市も、7項目を条件とした受け入れを表明する。12月には、小渕内閣が、沖縄県と名護市の条件をふまえた普天間移設方針を閣議決定した。

2000年から2002年まで、地元紙は412日に普天間移設問題の大きな特集を組んでいない。20027月には、辺野古沖のリーフ上を埋め立てて、2000mの滑走路を有する代替施設を建設する計画が国と県、名護市の間で決定された。

2003年に入ると、地元紙は現状への批判を強めた。412日の記事は、「普天間飛行場を7年後に全面返還するとの1996年の日米合意の期限」が来たのに、移設先の環境影響評価が始まったばかりで、これから評価に3年、埋め立てに約10年かかる見通しだと指摘した。小泉純一郎内閣が、2003年に始まったイラク戦争を理由に、15年使用期限について、「米側と交渉できる国際環境ではない」という姿勢であることも批判された。

 

在日米軍再編協議

 

2004412日の紙面は、イラク戦争と有事法制が中心だった。だが、同時期には、那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)が辺野古沖での現地調査に着手し、反対派が阻止行動を開始する。しかも8月には、沖縄国際大学(沖縄県宜野湾市)に普天間飛行場所属のヘリが墜落する。

この事件をきっかけに、進行中の在日米軍再編協議の論点に、「沖縄の負担軽減」が加わった。移設計画の見直し案として、普天間飛行場のヘリを嘉手納基地やキャンプ・ハンセン内に移し、給油機は岩国(山口県)、物資集積は下地島空港(沖縄県宮古島市)や九州の自衛隊基地に移す案や、ヘリ部隊を伊江島補助飛行場(沖縄県伊江村)に移転させる案などが、次々と報道される。

2005412日には、見直し案の乱立が、各自治体の反発を招いている状況が報じられた。

同年10月には、米軍再編協議の中間報告で、日米両政府が沖縄県と名護市の頭越しに、普天間移設計画を見直し、キャンプ・シュワブ沿岸部への移設案で合意したことが公表された。軍民共用や使用期限などの条件はなかったことにされ、沖縄県も名護市も、新たな移設案の拒否を表明する。

【以後、その②に続く】

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