「普天間返還合意」とは、結局何だったのか②

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22年前の普天間基地返還合意は、「代替施設」の行方次第では、沖縄基地問題をさらに混迷させるリスクを孕んだものであった。それを承知で合意に踏み切った橋本首相の胸中にあったのは、何であったのか。返還合意時に橋本が発した「取り返したぞ、普天間を」という肉声、そして政権発足時に掲げた「自立的外交」という言葉にその鍵が潜んでいる。

 

 

「取り返したぞ、普天間を」

 

19964月、日米両政府によって電撃的、かつ華々しく打ち出された普天間基地の返還合意は、前回述べたように橋本首相にとって、いくつもの利点がある「妙手」であった。

しかし、代替施設の規模次第では、「返還合意」はあっという間に沖縄県内における事実上の「基地転がし」へと暗転しかねない。永田町随一の政策通として鳴らした橋本が、その難しさを知らなかったはずはない。

橋本自身は、「返還」が「新基地建設」に変質するのを防ぐため、代替施設が「撤去可能」なものであることに強く拘った。それが普天間「返還」を、「基地転がし」や「新基地建設」に転化させない生命線だと考えていたのであろう。その苦肉の策が海上ヘリポート案であったが、突如浮上したこの構想が、かえって事態を迷走させた面も否めない。

こうして見れば、前述のようなメリットがあったとはいえ、「返還合意」が孕むリスクはあまりに大きかった。実際に、際限なく膨張した代替施設は新基地建設へと変質し、日本政府と沖縄県の全面対立という異常な事態を引き起こすに至った。

それでは、橋本をそのような危うい「賭け」に駆り立てたものは何だったのか。橋本は日頃、独特の気むずかしさで永田町でも煙たがられたが、普天間返還合意の発表に際しては、心を許した側近に「取り返したぞ、普天間を」と口にし、興奮と高揚感を隠さなかった。橋本はこの問題をめぐって、一種のナショナリズムの気概を心中に秘めていたように思われる。

橋本は首相就任以来、文献を読み漁るなど沖縄の基地問題に没頭したが、そこには首相として沖縄の本土復帰を成し遂げた佐藤栄作の存在も大きかったと見える。橋本は青年時代から佐藤を「政治の師」と仰ぎ、総理執務室にもその肖像を飾った。佐藤による沖縄返還が残した最大の課題である基地問題を、自分の手で動かす。それが橋本の熱意の源泉であったように思われる。

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