「普天間返還合意」とは、結局何だったのか②

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沖縄/大田昌秀知事

 

近現代において、歴史の節目となる大きな動きは、沖縄と日本本土とではしばしば、異なる意味をもって立ち現れる。近年においては、サンフランシスコ講和条約の発効(1952428日)をめぐって、これを第二次安倍政権が2013年に「主権回復の日」として祝うことを決めたのに対し、沖縄から強い反発が出たことをご記憶の方もおられよう。

同条約よって切り離されることになった沖縄にとって、この日は1972年まで「異民族統治」の下におかれることになった「屈辱の日」であった(この認識の落差の危うさに最も早く、かつ鋭敏に反応したのが、構想段階の「主権回復の日」に違和感を示した天皇であった)。

米ソ冷戦の終焉という現代史における一大事をめぐっても、同様の差異が生じた。普天間返還合意をめぐる問題は、実はここに端を発する。冷戦終結に際して日本国内の言論空間では、全面核戦争の恐怖をはらんだ冷戦の恐怖と重圧から解放され、新たな未来が到来するという希望が語られた。

一方で沖縄にとって冷戦終結は、広大な米軍基地を大幅に縮小するチャンスを意味した。それを見抜き、この好機を逃すまい。そう決意したのが、当時の沖縄県知事、大田昌秀であった。ところが、その大田の前に立ち現れたのが、「ナイ・レポート」と呼ばれることになる米政府の報告書であった。【 以下、③に続く】

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