玉城デニー県知事候補誕生
話は、私と沖縄の友人との電話のやりとりに戻るが、私が玉城デニー氏を推薦することに賛同すると、友人は「デニーさん、やっぱりいいよね!実は今、デニーさんを県知事候補者として推薦するよう、調整会議にお願いしに行く準備をしているんだよ。それで、デニーさんを推薦する若者たちの意見を取り入れて、今推薦状書いている。結果はどうなるかわからないけど、また後で連絡するね」。そう言って、友人は電話を切った。
「調整会議に推薦状を提出する?それを若者たちが率先してやっている?これはすごい!何かが沖縄で起こり始めているに違いない…沖縄に帰りたい!」
そんな思いを持ちながら、結果を持った。しかし翌日発表された調整会議が推薦する候補者名簿の中に、玉城氏の名前はなかった。
「え?これじゃ勝てない…なぜ国会議員の玉城デニーではだめなの?…大田先生がまだご健在だったら状況は少し変わったからもしれない」
残念な結果を受けて、私はそんな事を考え始めていた。大田先生とは、故大田昌秀知事のことである。修士の時に行っていた沖縄での研究を通して、琉球王国時代、戦前、戦中、戦後、日本復帰前、復帰後というように、琉球・沖縄のこれまでの歩みについて、また自身の戦争体験も知事時代の話も含めて、多くの事を教えて頂いた。
最後に沖縄で先生にお会いした際、自身の知事時代を振り返ってこう述べられた。
「沖縄の知事になる人は、国会議員を経験している人が望ましい。安全保障委員会に入って、日本の防衛問題や安全保障の問題に対して国会で内閣に直接問題提起した経験がある沖縄の政治家でなければ、アメリカの国会議員や大統領と交渉するスキルも身に備わっていない」
長年アメリカで過ごし、沖縄戦や米軍統治時代の資料収集をされていた社会学者でもあり、そして沖縄戦を体験した知事として、沖縄の長年にわたる米軍基地の問題を日米政府に訴えた経験をもつ大田先生の助言は、後に玉城氏の総決起大会で行われた若者代表者スピーチによって、若者たちが玉城氏を知事候補者として推薦する理由の一つとして、参加者に伝える結果となった。
そんな大田氏の遺言ともいえる助言もあったせいか、私個人は調整会議が選んだ候補者の顔をみるなり、敗北の予感しか感じることが出来なかった。
しかし絶望の中、ミラクル(奇跡)は起きた。
「翁長氏、遺言 音声、玉城デニー氏、呉屋守將氏を後継者に」
突然、沖縄から届いたそのミラクルニュースに、心の底から救われた気分だった。
「OMG! It cannot be real!信じられない!こんな奇跡って起きるの?翁長さんいっぺーにふぇーでーびる(ありがとうございます)」
喜びを分かち合うため、今度は私から友人に電話をかけ、こんな会話を交わした。
「本当に信じられないニュースだったね?すごく嬉しいよ」
「本当だよ、信じられない!これでデニーさんは確実に県知事候補者になると思う。でも本当に、翁長さんと若者たちが同じ気持ちだったなんて、すごいことだよね。亡くなられた後も沖縄のために翁長さんが働いておられる気がする。本当に翁長さんには感謝している。ところでさ、藤佳、いつ沖縄に戻ってこれそう?これから推薦状書いたメンバーを中心に、デニーさんをサポートする若者チームが発足するから、帰ってきて選挙手伝ってくれない?」
「そうだね…沖縄にすぐ戻りたい思いはあるけど、早くても9月末かな?」
「え?9月末?何を言っているの?デニーさんが候補者になるんだよ?あなた沖縄の研究しているんでしょ?沖縄の歴史的な瞬間を、研究者として見逃すわけにはいかないでしょ?だから早く帰ってきて!」。
最初はその友人の話をしぶしぶ聞いていた私だったが、最終的には友人の助言に従い、沖縄に帰る決意をした。
「そうだ、玉城デニーさんが候補者になるんだ、彼が知事になったら沖縄の未来が変わる!こんな瞬間に関われなかったら後で、研究者としてではなく、ウチナーンチュとしてきっと後悔する!Let’s do this!」
今まで感じたことがない、でもまだまだ小さな希望という感情だったが、ポジティブな思いが私の心の中を満たしていった。そしてそのポジティブな気持ちは日に日に大きくなり、次第に抑える事が出来なくなっていた。そしてとうとう気がつくと、私は貯めていた航空会社のマイルを全て使い、9月3日ロサンゼルス発、那覇行きの航空券を購入していた。
実のところ、長年アメリカに暮らしていることもあり、私は、あまり日本の選挙運動に関わりたいと思えるほど興味や関心がなかったので、まさか自分から進んで知事選挙に関わりたいと思い、アメリカから帰国するなど思いもしなかった。確かに玉城氏が知事候補に選ばれていなかったら、今回の知事選挙に私は関わっていない。それは、私自身が玉城氏を推薦する理由として、彼のバックグラウンドや彼の国会議員としての経歴以上に、何よりも玉城デニーという人の基地問題に対する姿勢だった。それは、沖縄の人びとが基地からの被害に脅かされることなく、安全に生きられる沖縄の社会でなければ、豊かな沖縄の経済的発展は可能ではないという考えだ。それは、沖縄戦という日本で唯一の地上戦を体験し、生き残った沖縄の人々が永久平和を願う一方、戦後、米軍の銃剣とブルドーザーにより先祖の土地を追放され、戦前の暮らしが出来なくなり、またその一方、戦後の厳しい時代を生き抜くため、軍事産業化された沖縄社会の中で、新たな経済的営みを余儀なくされ、日本復帰後も、基地問題により人権が侵害され続ける沖縄の人びとの実情から、平和で豊かな経済的発展、つまり誰ひとり犠牲にならない社会の実現を願い、今日まで基地問題を日米両政府に訴えた続けた何世代にも渡る歴史を背負った沖縄の人びとの思いと、玉城氏の基地問題に対する姿勢が深く重なっているからだ。
「平和でなければ沖縄は真に豊かになれない」というそのスピリット(精神)は、私自身もウチナーンチュの先祖をもつ一人として継承している。