県知事選プロローグ
8月8日、沖縄から16時間時差のあるカリフォルニアの早朝、私はいつものように、何気なく知人たちのSNSの投稿をチェックしていた。その日の朝まで何の予兆も予感もなく、知人が投稿したSNSで突然「翁長雄志知事急逝」を知った。
「OMG…this cannot be real…どうしよう」。その日は朝からずっと食欲がなく、只々深い悲しみ、孤独に耐える事しか出来ない心理状態にあった。
「沖縄に帰れたら、この痛みをみんなと共有することが出来るのに」
その悲しみは、まるで自分の家族を突然亡くした時に感じるものに近いものだった。
「沖縄はこれからどうなるの?」、そう思えば思うほど、個人では受けとめることができない深い悲しみが、どんどん私の心の中にある希望を根こそぎ奪い、絶望が心の中を支配していく感じがした。
また、私自身をウチナーンチュという立場から翁長雄志知事の死去を考えた時、「翁長雄志という一人のウチナーンチュに、沖縄県民の想像を超える負担をずっと背負わせていたのではないか?なぜ、彼が背負わせた負担に誰も気がつくことが出来なかったのだろうか?」と思うと、絶望と共に罪悪感に近いネガティブな感情が、私の心の底から溢れ出た。
その両方の負の感情に、翁長氏の急逝を知ってから一日じゅう心を乱されていたが、最終的に私の心が求めたのは、絶望と諦めではなく、この絶望的な沖縄の状況から乗り越えるために、「沖縄は何をするべきなのか?」というルートを模索することだった。この負のループから私が早く脱出できたのは、2018年2月の名護市長選挙で前市長の稲嶺進氏が敗退したことを思い返したからだ。
辺野古の海を守るために、稲嶺氏を再選させることが叶わなかった。その時のショックは私自身の中にも、また稲嶺氏を応援した名護市民や沖縄県民の中に今でも残っている。その為、「何としても必ず9回の裏でサヨナラホームランを打たないといけない!」というように、今度の県知事選挙は絶対負けられない選挙だと思っていた。
私自身は、名護市長選挙に関わっていなかったが、名護市に住む友人たちが必死に選挙活動をしていたため、敗北という選挙結果を受けて、彼らは、稲嶺氏を再選させる事が出来なかった自らの至らなさをずっと悔やんでいた。
「もうあんな思いはしたくない」
誰も言わなくてもその言葉は、名護市長選挙に関わり、稲嶺氏をサポートした若者たちの中に存在し続けたし、選挙に関わっていない私の心の中にも存在していた。
そんな経緯もあり、「この緊急状態の中、オール沖縄は誰を翁長さんの後継者として推薦するのか?」、一人でそう考え始めたころ、突然沖縄の友人から電話をもらった。電話の内容は、驚くほど私とシンクロしていていた。なぜなら、友人は何の前触れもなく、突然、玉城デニー衆議院議員の印象について尋ね始めた。
「ね、藤佳、玉城デニーさんどう思う?どんな印象がある?」
「え?デニーさん?それって、彼を県知事候補としてどう思うかってこと?」
予想もしなかった「玉城デニー」という沖縄の政治家の名前に少し戸惑った。しかし、少し間をおいて、私は友人にこう返答した。
「デニーさん…いいと思うよ!もし彼が県知事になったら、沖縄は私たちが想像する以上に変わると思う!」
なぜ私がこの様に答えたかというと、それは戦後沖縄の歴史を物語る玉城デニー氏のバックグラウンドだった。玉城デニーという沖縄の政治家は、海兵隊の父とウチナー(沖縄)の母というルーツをもち、その上、彼は米軍基地が集中し、過重な米軍基地を負担している沖縄本島中部選出の国会議員である。そんなバックグラウンドをもつ彼は、日米同盟を真に尊重する上で、日米地位協定の改善を求め、従来の沖縄における米軍基地の在り方に対して反対の姿勢を示し、ぶれることなくその意思を表明し続けてきた沖縄の政治家だからだ。
沖縄では、玉城デニー氏と同じく米国と沖縄にルーツをもつウチナーンチュは珍しくない。またアメリカ国内には、同様のバックグラウンドをもつウチナーンチュが多く存在する。そんな沖縄特有のルーツをもち、国会議員として活躍している彼に、私は以前から研究対象者としてインタビューをしたいと思っていた。実は、修士の頃、「沖縄の米軍基地がどの様な集団的心理現象をもたらすのか?」というテーマをもとに行った研究で、私は沖縄本島に住む世代の違う15人のウチナーンチュたち、例えば、戦争を体験した世代、アメリカ軍事統治を体験した世代、日本復帰前後の世代、そして日本復帰後の若者世代などを研究者対象者として、質的調査インタビューを行った。その時の研究対象者の中に、2004年に起きた沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件当時、沖縄国際大学の学生さんだった方々にインタビューさせて頂く機会を頂いた。インタビューを通して、ヘリ墜落事件の話から個々人が思う米軍基地との関係性について、様々なストーリーを語って頂いた。その中のお一人が、複雑化された米軍基地とウチナーンチュとの関係性を物語る話をしてくれた。
「私は沖国(大)のヘリ墜落事件後から、ずっと米軍基地に対して反対の立場ですが、実は私にはアメリカの血(海兵隊の血)が流れていて、公の場で基地反対と言えません。ですから、従来の反対運動に参加することに家族はよく思っていません。そのこともあり、基地に対する自身の気持ちをあまり公の場で共有してきませんでした。沖縄には私のような立場の人が大勢いると思います」
そんな米軍基地との複雑な関係性を物語る発言に、戦後73年が経っても辺野古に米軍新基地を建設するという不条理が重なり、沖縄の人々と米軍との負の関係がますます増して行くように感じた。私のインタビューに応じて頂いたこの方のように、沖縄の人が自らの体験を通して、基地問題に対して意思表明したくても、米軍統治時代から続く沖縄と米軍の負の歴史的な関係性によって、米軍と沖縄にルーツをもつウチナーンチュ達の立場を尊重しない傾向が戦後の沖縄に存在し、様々な立場に存在するウチナーンチュたちが、自らの声を上げることを妨げているように感じた。このインタビューを通して、私は米軍基地によって生み出されたウチナーンチュの特殊な心理状態を認識することが出来た。