ナショナリズム 沖縄の保守【上】~戦後日本とは何か

この記事の執筆者

米軍統治下で「日本国民」教育

 文部科学省はホームページに載せている「沖縄の教育 戦後の歩み」で、「日本国民たる県民の教育は県民の立法で行うべきという願いは、本土復帰への悲願とともに年を追って高まった」と説明する。公選の議員からなる立法院が、前文に「日本国民として」と記された教育基本法を可決。それを1958年に米国が認めたことで「沖縄の教育は本土と一体化した」としている。

この立法を後押しした「沖縄教職員会の教育闘争」について、岩波書店の月刊誌「世界」79年4月号の沖縄特集で、県立高校教諭だった中里友豪さんが書いている。

 ――対日平和条約によって「祖国」と分断されたときから、政治と教育は切り離しては考えられないものになっていた。「祖国復帰」は「熾烈」な要求であった。〈異民族支配からの脱却〉をスローガンに復帰運動の中心的役割を担ったのも教職員会であった。(中略)「日本国民として」の一文を挿入するために長い間闘争が続けられた。

この祖国復帰運動から派生した「日の丸ナショナリズム復活」を、中里さんは危惧していた。「深い絶望感に襲われた」というこんなエピソードも紹介している。

 ――67年頃だったと思うけれども、四・二八祖国復帰要求県民総決起大会で、ある高校の女生徒があたかも”ひめゆり部隊”のように全員日の丸の鉢巻きをしめて参加している姿を目にした。

 現在、82歳。詩人として那覇市で暮らす中里さんに取材を申し込むと、「当時と今と、基本的に考えは変わりません」という手紙が4月に届いた。

 米軍統治下でも「日本国民」を育てる教育は続いていた。そのことを確認して、末松さんの話に戻る。

 名護の設計事務所に入った末松さんは、1969年から4年間、建築を勉強するため東京で暮らす。72年の沖縄の日本復帰を、末松さんは東京で迎えた。

東京で迎えた沖縄の日本復帰

 「式典をテレビのニュースで見て、非常にうれしかった。東京は高度経済成長だし、情報の集積がすごい。(72年に首相になった)田中角栄さんは日本列島改造論を打ち出した。だから復帰でうれしいのと同時に、沖縄もこのぐらいのレベルにならないと、と思って名護に戻りました」

辺野古集落の歓楽街。ベトナム戦争当時はにぎわった

当時の末松さんにとって米軍基地はどんな存在だったか。「ありがたかった。基地で働くおじとおばの支援で高校を出ましたから」。東シナ海に面した名護の市街から山を太平洋側へ越えた辺野古に、米軍基地があった。「兵隊たちが街に来たり、私が友人と辺野古へ行ったりして、仲良く一緒に飲んでいた」

 沖縄本島でも宜野湾市の普天間のように人口密集地に米軍基地がある中部では、事件・事故や騒音は深刻な問題となる。一方で、名護市を含む北部は山林が多いことから「ヤンバル(山原)」と呼ばれ、県全体よりも人口の伸びは鈍く、米軍との間合いにはまた違ったものがあった。

那覇空港から名護まで、末松さんに会うためにレンタカーで北へ走ってきた沖縄自動車道を思い出した。市街地の多い中部の沖縄市、うるま市を抜け、北部の金武町に入ると道路の起伏が大きくなり、山が迫ってくる。自動車道の終点の名護からさらに北へヤンバルは続く。

 経済大国となった日本に復帰した沖縄で、南北の格差是正は、基地経済からの脱却と絡み合う復興の課題となった。復帰から四半世紀たった1997年、そのジレンマが名護市に覆い被さった。

 米兵の少女暴行に対する県民の反発を受け、日米両政府が基地負担軽減の目玉として打ち出した普天間飛行場の県内での移設先が、辺野古沖に絞り込まれたのだ。

 末松さんは当時、名護市の企画部長。市長の比嘉鉄也さんのもと、政府による県北部の振興と引き換えに移設受け入れを探った。

 「県は均衡ある発展と言うが、北部に手当をせず、依然として格差はある。経済を中心に考えないといかん。そういう話を比嘉さんとしながら、やってきたんです」

この記事の執筆者