22年前の普天間移設受け入れ
1997年末、移設をめぐり行われた市民投票は、投票率が8割超、うち反対は5割超だった。しかし比嘉さんは受け入れ表明に踏み切った。政府に県北部の振興を求めつつ、「普天間を動かさなくては、沖縄の振興はありえない」と述べ、県中部が普天間飛行場の跡地を利用することで、沖縄全体のさらなる発展を目ざすべきだと強調した。
比嘉さんは、名護から県北部、そして沖縄全体の振興へと「郷土愛」を広げるかたちで、いわば「沖縄の保守」として普天間飛行場の移設を受け入れた。そして、名護市民を代表する政治家としては、市民投票で「住民を二分させ苦渋の選択をさせた」として市長を辞した。
名護では、比嘉さんのあと二代の「保守」市長が「移設受け入れ方針」を継承したが、次の「革新」市長がこれを拒み、昨年当選した新市長はまだ態度を明らかにしていない。その間20年以上、市長選でも知事選でも、普天間飛行場の辺野古沖への移設をめぐり保革が対立を繰り返してきた。
「もういい加減にしてほしい」と末松さんは言う。「そもそも基地賛成の人はいない。やむを得ず受け入れるんです。早めにこの問題に決着をつけて、新しい沖縄づくりに一丸となって取り組まないと」
でもなぜ米軍基地を「やむを得ず受け入れる」のかと聞くと、こう話した。
「我が国がここまで発展したのは、この地域の安定に沖縄の米軍基地が貢献したお陰でしょう。政府はそう考えるから沖縄の振興をやらんといかんとなる。米軍の事件・事故はあるけど、日米地位協定の見直しをやっていけばいい。持ちつ持たれつという国と沖縄の関係の発展に、私は期待します」
そう割り切れる理由をさらに問うと、話は「沖縄の位置」に根ざす歴史へぐっと広がった。
「琉球王国の頃には中国とつきあい、薩摩に抱き込まれ、米国のペリー提督が黒船で訪れた。沖縄はそういう位置なんです。それをふまえてどう島を発展させるか。拳を挙げるだけでは道は作れません」
沖縄はその後も、明治に生まれた近代国家・日本に組み込まれ、敗戦で「太平洋の要石」として米軍統治下に置かれ、日本復帰後も日米安保体制を支える在日米軍が集中し続ける。「沖縄の位置」故に周辺に翻弄される島の歴史を受け止め、その中でいかに生き抜くかを追求するのが「沖縄の保守」と言えるのかもしれない。
もちろん、そうした歴史は沖縄に対する差別や収奪の反復でもある。とりわけ沖縄の人々には、県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦のような惨劇は決して繰り返すまいとの思いが強い。それを「基地のない島」という形で追求するのが「沖縄の革新」である限り、「沖縄の保守」との溝は容易に埋まらないだろう。
日本とその国民が近代国家としてひとまとまりであろうとするなら、そんな沖縄の保革をともに包み込む存在であらねばならない。分断をあおるような施策は近代国家として自己否定に等しく、だからこそ沖縄から、一体ここは日本なのかという、翁長が本土に突きつけた根源的な問いが発せられ続けるのだろう。
重い話の後、別れ際の末松さんはやはり笑顔だった。私は週末の家族連れでにぎわう名護市街の沖縄そば店で三枚肉そばをかきこむと、レンタカーで山を越え、埋め立て工事が進む辺野古沖を眺めた。
押しつけられた「苦渋の選択」
東京の職場に戻り、『決断 普天間飛行場代替施設問題10年史』という本を読み直した。沖縄県北部の経済人らからなる北部地域振興協議会が、2008年にまとめたものだ。
比嘉さんは名護市長を辞して10年が過ぎたその年、末松さんらとの座談会で最後にこう語っている。
「国と国との問題は、国と国が決着すべき問題でありますが、普天間基地を小さな名護に押し付けて、三代の市長に苦渋の選択をさせたということは、みんな知っていただきたいと思います。しかし、苦渋の選択の中に、北部12万郡民の将来に明るい希望が持てるような政策を決断できれば、時には、苦渋の選択もやるべきです」
日米安保体制という戦後日本の「国体」の中にあって郷土愛を貫く、「沖縄の保守」の心髄を見る思いがした。
その「沖縄の保守」に戦後日本が「苦渋の選択」を迫る構図は、今も変わっていない。
<以下、【下】へ続く>
※藤田さんは朝日新聞社の論考サイト「論座」で、連載「ナショナリズム 日本とは何か」を2019年4月から毎週木曜に掲載しています。この記事は、その「沖縄編」から7月18日と25日の分をまとめたものです 。