「沖縄の保守」訪ね名護へ
名護市区選出の県議、自民党の末松文信さん(71)。名護市役所に入り副市長までつとめあげた。約20年前、市がいったん普天間飛行場の辺野古沖移設を受け入れた判断に深く関わり、その後も移設問題に揺れる地元で「沖縄の保守」を貫いてきた。
県議会では、翁長に「国には国の責務があるが、県も責務を負うべきだ」と詰めより、安倍政権と協力して「沖縄の将来像を描く」よう求め続けた。
末松さんはどのようにして「沖縄の保守」になったのか。9年前、朝日新聞の那覇支局員として知り合った頃から、ずっと聞きたかった。だが、本土の米軍基地と縁遠い場所で暮らす身にすれば、軽々しく踏み込めないテーマに思え、ためらっていた。
普天間移設問題で県民投票があった2019年2月下旬の週末、思い切って名護の事務所を訪ねてみた。
本土はまだ寒かったが、プロ野球のキャンプも開催中だった名護は初夏のような日差しだった。那覇空港でレンタカーを借り、末松さんを市街の事務所に訪ねると、にこやかに迎えられ、冷えたさんぴん茶をすすめてくれた。
壁には安倍晋三首相や小泉進次郎衆院議員のポスター。末松さんは、敗戦から間もない1948年、沖縄本島より少し北の伊是名島での生まれから話を始めた。
「島には高校もないし、農家を継ぐ長男以外はメシが食えないということで、那覇の工業高校に通いました。卒業して名護の設計事務所に入ったのが復帰運動が始まったころ。私も沖縄を返せとかテーマソングを歌いながら、本島北端の辺戸岬まで歩いたんですよ」
日本は冷戦下の1952年4月、米国などとの講和条約が発効し主権を回復する。しかし、沖縄はその日本から切り離されていた。近代国家で「国民」を育てるのに欠かせない教育は、米軍統治下の沖縄ではそもそもどうだったのか。末松さんは「英語だったの? とよく聞かれるけど、日本と変わらなかったですよ」と笑ったが、大事なのでおさえておきたい。