沖縄報道~戦争による断絶の歴史から考察する

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変わる沖縄

しかし一方で「変わった」こともある。1つには、本土から沖縄を見る眼の変化だ。国政政党間でも、明確に沖縄県(民)の立場を支持する政党が一定数現れるようになった。ようやくここまで来たということかもしれないが、先の19年参議院選挙では、野党4党が「新基地建設の中止・反対」で合意し、選挙公約として掲げた。これは、政府の「辺野古が唯一の選択肢」との主張がすべてではない、との認識が着実に広がっていることのあらわれだ。

 同時に辺野古に向き合う大手メディアの報道も、14年以降で大きな変化を示してきている。たとえば、以前は一般的だった国家安全保障上やむなしという言い方は表面上ほぼ消え、「民意の尊重」を伝えている。また、県民の我儘、あるいは県の責任という言い方もほとんど見られなくなり、時には一歩踏み込んで「国の責任」に触れるに至っている。

 とはいえ、いまでも首相や官房長官の決まり文句の「唯一の選択肢」でニュースを終え、その直前の沖縄県の主張が否定されたままになることで、イメージとしては政府主張に正当性があるよう捉えられがちだ。これこそがまさに、メディアの政府への消極的加担そのものともいえよう。それでも以前に比べれば、「他の現実的可能性」に触れるメディアも増えてきてはいる。その関係で、後戻りできずとの姿勢が強かった状況から、工事は「即時中止」して話し合いを求める報道姿勢も一般化しつつある。これらは、辺野古埋立現場における初の土砂投入時や県民投票時の、各社ニュースの姿勢からわかることだ。

 2つめには、県内の意思のあらわれかたとして、沖縄が「強く」なったことが挙げられるだろう。もともと沖縄は、歴史をひもとけば琉球の時代から、そのしなやかさと意志の強さは秀でていた。しかし改めて19年の県民投票を振り返る時、組織や団体ではなく個人の意思の集合体としての運動が成立していたことは、前回1996年(日米地位協定の見直しと基地の整理縮小について)との大きな違いである。さらには、政府与党側が「不戦敗」を選択したこと自体が、97年に実施された名護市民投票(海上ヘリポート建設計画の是非について)の時との違いで、すでに県内意思として反転しようがない絶対的な強さを包摂していることをあらわしている(近年、ほかの選挙でも自民党は徹底して辺野古を争点化しない戦略をとってきている)。

 変化を巻き起こしている直接的な要因には、従来の革新共闘の枠組みに保守系や経済界の一部勢力が加わった超党派の「オール沖縄」の誕生がある。その象徴が、金秀(かねひで)グループ会長の呉屋守将であるし、保守系論客を父に持つ住民運動リーダーである元山仁士郎であろう。こうした幅広い支持が運動の広がりを後押しし、全県・全国区の運動として成立するようになった。その副産物としての辺野古基金であり、米国発の署名活動とその反射的効果としての国内における賛同の声ではなかろうか。

 対立構造が鮮明化してきたという意味においては、少なくとも沖縄県内においては意見の相違による敵味方というよりは、世代間、地域間の意識差が明確化・顕在化してきたと理解すべきなのだろう。米軍基地が集中する本島中部・北部と南部によって、本島と基地被害が少ない離島によって、地上戦および施政下体験者とポスト〈戦争〉世代によって、捉え方の差が生まれるのは当然だ。そうした中で、県内でさえも沖縄の現在を語る際の「当然の前提」――、たとえば米軍基地による甚大な被害や、沖縄地上戦における凄惨な経験が、共通の認識ではなくなる状況が一般化してきている。

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