沖縄報道~戦争による断絶の歴史から考察する

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対立と対話と

そうなれば当然、「歴史の上書き」と呼ばれる過去の否定が生まれやすい環境が生じてくる。こうした状況が顕在化し、体験者がいなくなり、米軍施政を知らない世代(70年代以降生まれ)が県民人口の過半となる状況を迎え、歴史の連続性をどう伝えていくかが明確に問われ始めたのがここ10年といえるだろう。まったく同じ問題は、ドイツのナチズムに対する学習においても生じているといわれ、世界共通の悩みともいえるだろう。

 さらにこれらに輪をかけるかのごとく、東京発の歴史の否定がある。いわゆる沖縄戦における集団死(自決)に関する教科書検定である。日本軍強制性の事実を意図的になかったことにしようとする「本土」の動きに、県内は強い怒りで応えたが、この抗議の県民集会(2007年)を、一部の在京紙は社会面で小さく扱うにすぎなかった。

戦後の本土における沖縄報道を時代区分すると、米軍施政下の〈無理解の時代〉、2000年代半ばまでの〈軽視(もしくは黙殺)の時代〉であり、そしてこれに続くのが、〈政治の時代〉である。

 翁長知事誕生までのこの時代は、沖縄関連の事案が「政治化」することによって大きく扱われるようになった。教科書検定問題はちょうどそのターニングポイントともいえる「事件」であった。沖縄戦以来の歴史認識に立つか、東京における政治問題として扱う価値があるかといった、報じる側の立ち位置が報道の量も質も変えることになったからだ。

 ただし、沖縄関連ニュースの量的な拡大が、結果的に政府の言い分をより広範に広めていることにつながっている側面も否定できない。しかもそれだけでなく、政府の意向を汲むかのような積極的な煽動すら起きている。こうした状況の中で、今日に至る〈対立の時代〉があるということになる。

 こうした対立が深まる中で、それを乗り越えようとの動きも進んでいる。その1つが先に挙げた元山らの「対話」を求める活動で、世代間や島々間の対話を訴え続けている。あるいは、きちんと「反論」することも始まっている。いわゆる「沖縄神話」に対するデータに基づく反論解説や、ファクトチェックと呼ばれる情報の真偽判定だ。前者に関して言えば、沖縄は基地で食っている、普天間基地周辺はかつて人が住んでいない土地だったなどの、意図的なデマが一時はネット世論の大勢でもあった。しかし、反論本や反論サイトの効果とも相まって、明らかにピークは越してきたといえよう。

 ただしこれは「神話」に限定した話であるし、いまだに米軍高官からは同種の発言が繰り返される状況だ。さらに巷間では、年間1000億円の軍用地料や沖縄振興予算に依存しているくせに、といったデータに基づかない難癖の類いは相変わらず少なくない(たとえば、人口一人当たり地方交付税は17位だし、土木費の人口一人当たり金額は全国でも21位と中位程度で、沖縄県の経済が他県と比較して突出して公共事業によって支えられている事実はない)。

 さらにいえば、「米軍海兵隊は東アジアの軍事的抑止力のためには必須」「在沖米軍基地は戦略上最適」「こうした国家安全保障上の義務を放棄する沖縄県及び県民は国賊モノ」といった言説が、相変わらず広く流布し続けている。広く定着した「偏見」を拭うためには、拡散の何倍もの努力と時間が必要かもしれない。それもまた、デマの拡散を見て見ぬふりをし、場合によってはいまでもベストセラー作家の発言等を通じて、間接的に後押しし続ける大手マスメディアが負うべき、フェイク是正のための社会的責任であろう。

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