沖縄報道~戦争による断絶の歴史から考察する

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ともに闘う歴史

およそ150年前に日本で近代新聞が誕生して以来、新聞は社会の中核的なメディア=基幹メディアであり続けてきた。そしてまた、今日発行されている新聞の多くは、明治・大正そして戦時中を含む昭和、平成、令和の時代を、おおよそ途切れることなく伝え続けてきている。戦時中は、法によって統合が行われ、その間、紙齢が途切れている新聞も少なくないものの、それらも戦後の復興期に再刊され、今日に至っているのが一般的だ。

本土の新聞ももちろん、火災や戦時中の空襲などで社屋が焼失した例は少なくないが、ほんのわずかの休刊期間で、他紙への委託印刷等によって急場を凌いだ(『中国新聞』でも原爆による休刊はわずかに2日間である)。これに比して沖縄の新聞は、大きなブランクを背負っている。日本国内唯一の地上戦によって、物理的に発行が不可能になり流通インフラも破壊され、新聞は休廃刊を余儀なくされたのだ。

 さらには敗戦後も、沖縄では米軍の占領・施政が続くことで、「自由な新聞」発行は長く叶わなかった。それでも、戦後にいくつかの新聞が立ち上げられたが、少なくとも米軍管理のもとでの発行であった。当時の沖縄には憲法が存在せず、文字通りの「無憲法」の時代が四半世紀にわたり続くことになる。戦後創刊の『沖縄タイムス』は言うまでもなく、戦前の題号を引き継ぐ形をとっている『琉球新報』においても、むしろそこには明確な「断絶」がある。

 その断絶の1つは、戦争協力を主体的に行なった新聞との決別である。本土の多くの新聞では、経営陣も所属する記者も、戦前との連続性の上に存在する。もう1つは、米軍施政下に民衆とともに、表現の自由の獲得のために戦った歴史の存在である。戦後、本土の言論・出版の自由は、戦前・戦中の犠牲の上、与えられた自由であるという側面を否定しえない。これに対し沖縄では、前述の通り表現の自由の憲法的保障がない中で、一進一退を繰り返しつつ、島ぐるみ闘争など島民の命をかけた戦いに後押しされる形で、少しずつ歩を進めてきた歴史がある。

 こうした民衆とともに歩んだ苦難の歴史は、厳然と紙面に息づいている。いま、沖縄地元紙の紙面は怒っている。あえていえば、理性のメディアの象徴であるべき新聞が感情を持っているということだ。もちろん、ジャーナリズムの根底には不正義に対する怒りや、悲しみへの共感などがなくてはならない。しかし、それを直接表に出すことは可能な限り避けてきたといえよう。それでもなお、県民の怒りが高まる中で、県民と並走することの大切さ、あるいは民意を決して裏切らないことの重みが、沖縄ジャーナリズムの基本として存在しているのではないかと思う。同じことは地元民放3局にも当てはまる。

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