沖縄でも必要な「共生」への公的取り組み
日本で実質的な「外国人労働者の受け入れ」が始まったのは1990年前後なので、30年の歴史があるのだが、この間、国の制度・政策の問題から、「外国人労働者」が多い都府県では重大な社会問題が生じた。それは大きく二種類の問題に分けられる。
第一は労働問題だ。詳細は次回に譲るが、「留学生」や「技能実習生」として来日するアジアの若者たちは、実家が資産家でなければ、百万円単位の借金をしなければ来日できない仕組みになっている。ところが日本での給与が事前に聞かされていたより大幅に低い事例が少なくない。また、解雇・強制送還への恐怖から雇い主に賃金のピンハネや長時間のサービス残業の強要、労災隠しなどをされても訴えにくい構造となっている。このため、借金苦に精神的に追い詰められる若者が後を絶たず、一部は就労先企業から逃亡して「不法滞在者」に転じながら、合法・非合法の仕事で日銭を稼ぐ状況がある。
第二の問題は地域社会からの「排除」の問題だ。この問題が早くから露呈したのが愛知県や静岡県などだ。自動車や家電などの産業が集積しているこれらの県では、工場で働く安価な労働力として、1990年頃よりブラジルやペルーなどから、日本語が話せない「日系三世(沖縄系を多く含む)」を「外国人労働者」として受け入れてきたが、「日系人」の場合、「留学生」や「技能実習生」とは違い、家族も帯同して来日することができたため、家族ぐるみで地域に住むこととなった。しかし、行政や地域社会の支援体制が大幅に不足していたため、「日系三世」とその家族が地域社会から排除されがちな状況が生まれた。
具体的にはまず、日本語を話せない日系三世家族が大勢入居した団地では日系三世住民と日本側住民との間に相互交流がない上に、ゴミ捨てなどの生活上のトラブルが相次ぎ、日本側住民から敵視される状況が生じた。加えて、連れてきた子どもたちについては、小中学校では日本語を話せない子供の学習を支援する仕組みがない上に、深刻な「いじめ」も起きたため、不登校者が続出。しかも外国人の場合学校に通う事は「義務」ではないため、これらの子どもたちの多くが中学校はおろか、小学校の段階で不就学のまま放置されて成長。教育的に大きなハンデを負った状態で社会に出る事態となった。
以上のような「外国人労働者」をめぐる二種類の社会問題は、「外国人労働者」に依存するようになってまだ日が浅い沖縄から見ると「対岸の火事」のように見えてしまう。だから、沖縄の行政やマスコミの「外国人労働者」に対する関心や取り組みは危機感を持って動いている他県と比べると低調に見える。
例えば、去年4月に改正入管法が施行されたこともあり、福岡県など多くの県では地元新聞がそれぞれの県での「外国人労働者」の実態を取材した連載報道を展開し、大きな反響を呼んでいる。これに対し沖縄では2016年に『沖縄タイムス 』 が県内のネパール人日本語学校留学生に関する連載を展開したものの、その後は途絶えている。
また沖縄県は「おきなわ多文化共生指針」を制定し、それに基づいて、国際交流・人材育成財団が外国人の生活支援事業などに取り組んでいる。しかし、実はこの指針が制定されたのは2009年のことだ。ネパールからの日本語学校留学生やベトナム人技能実習生が沖縄で急増するのは2010年代に入ってからなので、この指針にはこうした近年の大きな社会的変化が反映されていない。
昨年4月の改正入管法の施行を受けアジア諸国から沖縄に来る若者は今後一層の増加が見込まれている。その多くは長期間沖縄に住む「沖縄住民」になってゆく。そうであれば、「外国人労働者」「外国人住民」「外国にルーツを持つ人」をどのように公正に受け入れ「共生」してゆくのか。日本語や日本の社会制度に疎いがゆえに立場が弱いこの人たちの労働者・生活者としての権利をどう守ってゆくのか。こういった観点から、行政が時代に合った政策を打ち出し、地域社会と連携して取り組みを拡充してゆくことが必要だろう。
「共生」を目指す草の根の取り組み
こうした中、草の根レベルでは「共生」を目指す取り組みも始まっている。那覇市若狭にある若狭公民館は、在沖ネパール人で作る沖縄ネパール友好協会と協同して、2018年から毎年4月にネパール・ニューイヤー(ネパール正月)を祝うイベントを開いている。ネパールにはビクラム暦と呼ばれる独自の暦があり、そのお正月は西暦の4月中にあるが、沖縄に来ている若者は例年のように親兄弟と一緒に過ごせないので里心が出やすい時期となる。このタイミングで、お正月イベントを開催することで、ネパール人同士の親睦と地域住民との交流を同時に図ろうというという狙いだ。
一番最近開かれた去年4月14日のネパール・ニューイヤーには留学生と沖縄側の住民・運営ボランティアら300人が参加した。トピー帽と呼ばれるネパール人のシンボル的な帽子をかぶった男性陣や様々な民族衣装に身を包んだ女性陣が次々に壇上にあがって歌や踊りを披露し、満員の会場は手拍子などで熱気につつまれていた。公民館の三線サークルが三線でネパール民謡を演奏したり、ネパール人空手家が沖縄空手の演武を披露したりといった余興もあり、観客を沸かせていた。
若狭公民館の宮城潤館長はこのイベントのいきさつを次のように話す。
「この地域には日本語学校が多いため、数年前よりネパールの若者たちを大勢街で見かけるようになったのですが、最初の頃は、突然現れた大勢の「異邦人」に対する漠然とした警戒感のようなものが地域住民の側にあり、なんとかできないかと思っていました。というのも、私たちの公民館は、互いに面識のない人々がバラバラに暮らす都市部で「孤独」や「孤立」に陥ったり、「排除」されたりするような人たちが出ないようなコミュニティを作ることを目標の一つとしているからです。だから、縁あってこの地区の住民になったネパールの若者たちにも「孤独」や「孤立」や「排除」の問題を抱えてほしくなかったのです。そんな時、沖縄ネパール友好協会の人たちと知り合い、ネパールの若者たちが気軽に地域社会につながれるようなイベントを合同で開催しようという流れになったのです。」
沖縄ネパール友好協会は、公立中学校で英語を教えるサンジブ・シレスタさんと日本語学校職員のオジャ・ラックスマンさんらが2015年に結成したグループだ。沖縄生活が長く、また沖縄空手家でもある彼らもまた新来のネパールの若者たちと沖縄社会との橋渡しをしたいと考えていた。ゴミの分別マナーなどをめぐってネパール人留学生に対する苦情が出ていることを聞くたび、在沖ネパール人社会の年長者として心を痛めていたからだ。また沖縄の人にもっとネパール人の事を知ってほしいという素朴な思いも強かった。
「10年以上前、琉大の大学院留学生として沖縄に来た時は、同胞がこんなに増えるとは夢にも思いませんでした。ネパール側と沖縄側が仲良くなれるよううまく橋渡しをしてゆきたいです」(シレスタさん)
「トラブルの中には文化・習慣の違いによるものもあるんです。お互いの事をもっとよく知れば、いい関係を築けると思います。」(ラックスマンさん)
こうして在沖ネパール人たちと一緒にイベントを続けてきた結果、今では地域の文化祭にネパールの人たちがダンスで参加するなどの新たな交流も生まれ、以前のような「顔の見えない異邦人」ではなくなりつつある。
公民館の任務は担当する地域の住民生活全般にわたる。だから若狭公民館では、必ずしも「多文化共生」を前面に出した活動を展開しているわけではない。ただ、若狭に住む外国人もまた若狭の住民である、という当たり前の事実にたって、ネパール人留学生に目を向けた施策を展開し、結果として沖縄における先進例のようになりつつある。こうした草の根の地域活動とうまく連携しながら、県・市町村が生活・労働相談など「共生」に向けた施策を一層活性化してゆけば、既に始まっている「外国人労働者急増時代」にあっても、沖縄は多様な人々を包み込んだ、魅力的な土地であり続けることができるかもしれない。
【以下、編中】
[1]それまで入管法(出入国管理及び難民認定法)は、大学・短大に入った外国人学生だけを「留学」とし、日本語学校などの外国人学生は「就学」というより厳しい条件の在留資格しかもらえなかった。しかし、2010年7月から「就学」という在留資格が廃止されて日本語学校などに在籍する外国人学生も「留学」の資格がもらえるようになったため、アルバイト時間の上限も従来の4時間から大学留学生と同じ28時間まで引き上げられた。
[2] こうしたいわば「迂回ルート」を活用した「労働力輸入」のルートは「留学生」以外に、もう二つある。一つは1990年の法改正で、三世までは比較的容易に入国・滞在ができるようになった「日系人」、もう一つは「国際貢献の一環として、日本の産業現場で優れた日本の技術や仕事の仕方を学んでもらう」という趣旨で1993年に創設された「技能実習生」だ。国が「外国人労働者」の受入れ体制の構築に正面から取り組まないまま、「迂回ルート」を「抜け穴」的に利用した産業界によるなし崩し的な「労働力輸入」が進んだ結果、労働現場や地域社会で多くの人権・社会問題が発生したことがこれまでの取材・調査で明らかになっている。
[3] 沖縄労働局の「『外国人雇用状況』届け出状況」で、「専門的・技術的分野の在留資格」に該当する在留資格を持つ人たちの人数。