<対談・松原耕二×佐古忠彦>もう一度、沖縄と向き合う【中】

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定型化した報道スタイルへの反発

松原 「反骨 翁長家三代」を書いたもう一つの動機として、僕らが最近やっている沖縄報道の現状への危惧みたいなものもありました。こう言っては何だけど、沖縄の基地問題を伝えても視聴率が下がることはあっても上がることはない。しかも、沖縄まで行くには時間も経費もかかる。そうした中で、沖縄は米軍の事件事故が起きれば出張して報じるけれど、番組の展開としてはシュプレヒコールとか、沖縄の人たちは基地を押し付けられておかしいじゃないですかという声を伝えたり、記者やキャスターもそういうトーンでコメントしたりというのを締めにもってくる。何かあったときだけ伝えて、しかも全部が全部とは言わないけどワンパターンな印象を受けてしまう。報道スタイルがこんな風に定型化し、同じように見えるのは非常にまずいと思っていました。
2時間のドキュメンタリー「フェンス~分断された島 沖縄」を作ったのも同じ動機です。定型から脱却したものをつくりたいと、様々な立場、世代の人に話を聞きました。基地に反対の人も、賛成の人も、若い世代、基地から入る地代で自宅を建ててローンを組んでいる人たちも、さらにはフェンスの中で暮らす海兵隊員にも密着して、彼らが基地の反対運動をどう見ているかもじっくりと聞きました。
今、いろんな人たちが、「マスコミは沖縄の平和運動のきれいな物語だけを描くからね、ほんとのことを描かずに」みたいな言い方をするけれど、定型化した報道スタイルにも付け入れられる隙があると思うんです。それをものすごく感じていたから、別の切り口というか、定型化への反発というか。そこを何とかしなきゃという気持ちもあった。
さらに今は、中国との関係も相まって、沖縄の問題も仕方がないよね、みたいな雰囲気もある。沖縄をめぐる本土のメディア状況は、以前よりも悪くなっているように思います。

「単純化した対立の構造」で真相は伝えられない

佐古 映画「カメジロー」の批判的な感想として、瀬長亀次郎はよかった、しかし翁長雄志がカメジローの再来のように描くのはいかがなものか、というものがあります。私には決してそういう意図はありません。だって、政治的な歩みを見たら瀬長亀次郎イコール翁長雄志というのは絶対に成り立たない。だけど今、沖縄社会の中での位置づけとして、政治的立場を全く異にしていながらも、確かに同一線上の存在として捉えられている面も否定できないように思います。
沖縄を本土の思想的な価値観で見ると間違ってしまいます。たとえば、瀬長亀次郎さんが使っている言葉の中に、「民族」とか「領土の防衛」とか、はっとさせられるものがあります。保守と革新、左と右と、安直にカテゴライズする風潮が強まっている昨今であればなおさら、カメジローが歩んだ政治の道はある一定のところにカテゴライズされますよね。ところが、そこに分類される人とは思えない言葉がいっぱい出てくるわけです。今でこそ、右寄りの人が左寄りの人を批判するときに「売国奴」だとか言いますが、カメジローの口から「売国奴」って出てきますからね(笑)。
次女の千尋さんに、亀次郎さんの言う「民族」ってどういう意味だったんですかと尋ねると、「これ沖縄じゃないのよ、日本民族のことなのよ」って。理由は簡単で、「復帰」を一番強く望んでいた人だから、と言うんです。日本をずっと追い求めた人だったんですよね。だけど今、カメジローをカテゴライズする人たちは逆の価値観で捉えがちです。
翁長さんだって、政治的にカテゴライズすれば、亀次郎さんとは真逆の人なのに、例えばオスプレイ配備に反対したときから、赤い鉢巻をつけて拳を突き上げ、横を見たら名だたる革新の政治家と一列になって、「エイエイオー」とやっているわけですよ。これって何なんだろうと思ったときに、沖縄の歴史を見なければいけなくて、亀次郎さんの人民党は最後には共産党に合流しましたが、亀次郎さん自身は沖縄にとって右も左も超えた存在だったと思うんです。千尋さんいわく、学問として共産主義は良いと思っていたけれども、政治的には一線を画していたって言うんです。なるほどと。亀次郎さんにせよ、翁長さんにせよ、沖縄の本物の保守政治家がここにいるのでは、という気もするんです。

松原 なるほどねー。翁長さんの言葉で印象に残っているのは、沖縄は戦後、保守と革新に分かれたと言われるけれども、結局革新は人権を守るための闘いをし、保守は食べるための闘いをしていたと。両方とも沖縄にとっては必要なもので、結局目指すところは変わらない、役割が違っただけなんだと。亀次郎さんだって翁長さんだって、大田(昌秀元知事)さんだって、目指すところはじつは同じで、立場が違うように見られただけで、じつは「オール」という大袈裟な言葉を使うまでもなく、沖縄を背負う政治家の目標は常に同一線上にある、別の言い方をすれば、人々の生活と思いを本気で背負うと、最後は保守とか革新とか言ってられない。そんなものを超える場所に立たざるをえなくなるのではと思います。

佐古 「イデオロギーよりアイデンティティー」と唱えて14年の知事選に当選した翁長さんは、まさにそのことを体現していますね。左とか右、保守とか革新という分類では捉えきれないものが沖縄社会にはある。かつて、ある選挙を取材したとき「基地か経済か」って表現、私もしたことありますよ。でも、単純化した対立の構造だけでは真相は伝えられないんじゃないかって思いますね。

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