最高裁は虚心に見極めを
第3次嘉手納爆音訴訟での米政府への訴えを却下した一審は、その根拠となる国際慣習法が「ある」とした判決で、まず在日米軍基地の騒音をめぐる様々な訴訟において同様の「裁判所の判断が数次にわたり示されている」とし、過去の最高裁などの判例を持ち出した。その上で国際条約や外国の判例、法律について検討している。二審もその判断を踏襲した。
だが、そうした過去の日本の判例は、上記の通り最近明らかになった、米政府側が真逆の見解を示す文書や、日本政府による説明の根拠の薄弱さをふまえたものではない。そして海外の事例をどう見るかに関して言えば、一、二審の判決においては同じ事例ですら住民ら原告と評価が真逆になっている。
最高裁ホームページでの今の裁判官15人の紹介を見ると、国際法の実務経験が長いのは林景一・元駐英大使だけだ。国際慣習法というそもそも日本の裁判官にとってなじみの薄いものに向き合う時、最高裁に求められるのは、過去の判例にとらわれず、直近の国際社会の状況まで視野を広げて虚心坦懐に見極める姿勢だろう。
同じ法律の専門家である原告の弁護団とこれほど見解が分かれ、日本政府の説明も揺れるこの分野の国際慣習法とは、一体何なのか。それは見極められないかもしれない。
その場合は決して、「ある」という存在証明に固執して実質的な審理を避けることがあってはならない。対外国民事裁判権法に基づく初の対米訴訟とされる、住民らの訴えを受け入れればいいのだ。
そして、日米安全保障条約に基づき日本に駐留する米軍の活動が、航空機の騒音という形で日本国民の人権を侵害する場合に、米政府はどう責任を負うべきかの判断に、日本の裁判所が正面から向き合う姿を示すべきだ。
【本稿は朝日新聞の論考サイト「論座」で5月29日に公開された記事を転載しました。 】