司法が認めた沖縄戦の実態⑤

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食料を取りに行かせる日本兵

山城さんと同級生の男の子は、砲撃が弱くなった夜、キャベツなどの野菜を採りに畑に行っていた。日本兵が来てからは、避難している住民より先に日本兵に食料を取られてしまうようになった。鈴木軍曹が命じた。

「食料をもっととってくるように」

6月のある日、鈴木軍曹は命じた。

「壕にいる避難者のためにニンジンなどの食料をとって来い」

その時、山城さんは曽祖父母と親戚のおじいさんとその妻と5人で外に出た。そこに米軍の砲撃が襲った。爆風であらゆるものが飛ばされた。

気が付くと曽祖父母と親戚のおじいさんは遺体となっていた。即死だった。山城さんは親戚のおじいさんに言われるままに布団をかぶっていたが、頭の左側と両足に大けがをした。血が止まらない。


「死ぬかもしれない」

山城さんはそう思ったことを覚えている。壕に連れて行かれ、塩と豚の脂を混ぜたものを傷口に当てる応急処置を受けた。頭の大きな傷を見たカメは「娘はもう生きられないだろう」と思った。

数日後、米兵が壕に手榴弾を投げ入れた。手榴弾は山城さん家族の奥へ転がっていった。そして日本兵がいた壕の奥で爆発。日本兵3人は壕の中で死亡。傷を負った鈴木軍曹はフラフラになって山城さんらの前を通って壕から出た。そして「天皇陛下万歳」と叫んでこと切れた。

安全な筈の壕の奥にいた日本兵が死に、山城さんらは助かった。カメは壕の外は危険だと判断して、5日くらい壕の中にいた。

「日本兵の遺体は腐っていき、その臭いはひどいものだった」

しかしそれは山城さんも同じだった。がけがをした頭と足はウジがわいていたことを覚えている。

そうした状態が続いて迎えた6月23日。この日、沖縄での日本兵による組織的な戦闘が終わる。米兵に「壕から出てきなさい」と声をかけられた時、もう怖がる気も起きなかった。投降してそのまま捕虜となった。

その後、県内あちこちの収容所を転々とさせられた。実家がある摩文仁村南波平に戻ったのは、沖縄戦が終わって4、5年後のことだった。

山城さんらが住んでいた糸満市摩文仁。今は静かな時間が流れている

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