沖縄から眺望できる「国民的思考停止」という病の風景――辺野古米軍基地建設とは何なのか

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 忘れ去られた「問い」

 この国の何かが変わるのではないか――。この時の人々のうねりを現場で見つめながら、私はそんな風に考えた。敗戦後、「平和憲法」を持つこの国の国民は、「アメリカに守っていただいている」という固定観念に脳髄を支配され、国内各地を米軍が好き勝手に使える足場(基地)に提供し、しかも大半を沖縄に集中させたまま、国家の中枢も国民もその異常さを疑おうともしない――。

 この国のあり様に一石を投じた大田知事の捨て身の行動で、長年の不平等な安全保障政策を問い直す機運が広がるのではないか、と期待を持ったのだった。

 今思えば、30代だった私は、この国の「病」の深刻さをまだ十分に理解してはいなかった。2年後の97年、国会は基地用地の強制使用を可能にする駐留軍用地特措法の改正案を可決。知事が手続きを拒否しても国は米軍用地を継続して使用することが可能になる。沖縄の抵抗はあっさり押さえ込まれ、「安保」は微動だにしないまま、必死の問いかけもやがて忘れ去られていく。

 マスメディアの岐路

 知事の代理署名拒否から法改正に至るまでの、基地問題と日米安保をめぐる政治の動きは、本土(ヤマト)のマスコミ報道にとっての岐路でもあった。

 新聞では朝日、毎日など比較的「リベラル」とみられているメディアは沖縄に対して同情的だったが、「保守系」とされる読売、日経などは沖縄県政への批判に傾き、産経には、沖縄タイムス、琉球新報という地元新聞への批判記事まで掲載された。本土からの「沖縄バッシング」の始まりである。

 私は、「リベラル」とされる方の新聞社の記者の一人だった。沖縄が負わされている問題を全国に伝えようという姿勢は、当時の担当デスクや取材キャップ、記者たちの間で少なからず共有されていた。しかし、そのころは私自身、問題の所在を見出すには至ってなかった。

 例えば、「沖縄の基地問題」という言葉は記事でもよく使うが、本来は、沖縄ではなく日本の「病」だ。また、近年、日米地位協定の問題が全国的に議論になっているが、少女暴行事件の際にも、沖縄県は在日米軍の特権を羅列した協定の見直しを強く求めていた。

 忘れてはならないのは、アメリカ軍関係の事件・事故の裁判権や捜査権に関わる不平等規定の、その先にあるのは、いまや「国是」と化した日米安保体制だ。そこには「平和憲法」と呼ばれる戦後日本の体制との根本的な矛盾と不合理が存在する。われわれ記者は、沖縄という地に現出した「症状」に対処するだけではなく、さらに分け入って病の原因となる「病原」を見据え、日本という国全体の問題として検証しなければならない。記者としてそのことを十分に伝えられなかったことが、今も消えぬ悔恨だ。

 「唯一」の説明

 少女暴行事件の翌年4月に日米両政府が合意したのが、宜野湾市の米軍普天間飛行場の返還だった。住宅密集地のど真ん中で航空機が発着し、「世界一危険な基地」ともいわれる。2004年には同基地を離陸した大型輸送ヘリが隣接する沖縄国際大学に墜落する事故が起きている。沖縄の人々は一瞬、歓喜したが、返還には県内で代わりの基地を提供するという条件がつけられ、ぬか喜びとなる。

 普天間はアメリカ海兵隊の航空基地だ。海兵隊は、沖縄に駐留する米軍の陸海空海兵4軍種の中では一番大きな部隊ではある。陸戦部隊と航空戦力、補給部隊を併せ持ち、主に海軍の艦船でアジア各地を移動する。政府は普天間返還の代替基地に「辺野古が唯一の解決策」の主張を変えようとしないが、その機動力からすれば、日本国内のどこか別の場所に移転することだって、軍事技術的にはなんら不可能なことではない。そもそも、海兵隊の移動に使われる強襲揚陸艦の艦隊は、沖縄から800キロ近く離れた長崎県の佐世保基地を母港にしているのだ。

 「辺野古が唯一」について、日本政府はいまだに国民への説明を果たしていない。在沖海兵隊の駐留意義を強調した防衛省作成の宣伝用パンフレットがある。9年ほど前に発行され、そこにはこんなことが書いてある。

 「沖縄は・・・我が国の平和と安全に影響を及ぼしうる朝鮮半島や台湾海峡といった潜在的紛争地域に近い(近すぎない)位置にあります」

 「沖縄は我が国の周辺諸国との間に一定の距離を置いているという地理上の利点を有する」

 詳細な説明はないが、意味のよく分からない「地理上の利点」が、「唯一」の理由だという。「近い(近すぎない)位置」「一定の距離」って、いったい何キロメートルなのか。九州や北海道や東京や大阪とは何がどう違うのか。

 このパンフをめぐっては、沖縄県が防衛省に対して文書で疑問点を質したが、防衛省からの回答は肩すかしばかりで、まともな説明はなかった。そのやり取りは、同県のホームページで公開されている。

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