沖縄から眺望できる「国民的思考停止」という病の風景――辺野古米軍基地建設とは何なのか

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 海兵隊は必要か?

だが、それ以上の問題は、そもそもアメリカ海兵隊が沖縄を含む日本国内に駐留しなければならない理由など本当にあるのか、ということだ。海兵隊がなければ本当に日本の安全は危うくなるのか。

 在沖海兵隊は、もともと朝鮮戦争の予備兵力として日本本土に駐留していたもので、当時に比べれば規模も縮小され、日本が侵攻を受けた際の防衛力にはなり得ない。在沖海兵隊が、日本を守るための戦力でないことは、まともな専門家なら知っているが、まさに、それこそが国を挙げて検証し、国民全体で議論しなくてはならないことだ。でも政府は、安保の中身そのものに踏み込んで議論するのは避け、粗末なパンフレットでごまかしている。にもかかわらず安全保障を自ら学び、考えようとする国民はほんの一握りで、ほとんどの人は関心さえ持とうともしない。「抑止力」という、測定不能な空虚な言葉をよりどころにして、それ以上追究しようとはしないのが現実だ。

 政府の調査によれば約7割の人々が日米安保条約を認めている。マスコミの調査も似たような結果だ。そのことの是非は別にしても、自分の国の安全保障という重大事をほかの国に委ね、なるべく考えないようにすることで安心できるというのは正常ではない。国家権力が国民を「騙す」というよりも、国民が好んで権力に「騙されたふり」をして、思考すべきことから目を背けている、考えないようにしている――。そういう現実が見えてくる。

 埋め立て工事の再開

 コロナ禍の混乱が続く中、政府は6月12日、中断していた辺野古での埋め立て工事を57日ぶりに再開した。わずか5日前の沖縄県議選では、基地建設に反対する県政与党系の候補が過半数を制したばかりだ。

 地元沖縄の「琉球新報」はこう書いた。

 「沖縄に対し強硬な態度をとり続ける一方で、米国には常に弱腰だ。米軍の特権を認める日米地位協定の改定さえ言い出すことができない。強い者に媚び、弱い者には高飛車に出る。そのような国の在りようはいびつであり、一刻も早く改めるべきだ」(6月13日付)

 「本土」でも、いくつかの地方紙が言及した。

 「自治の観点からも地方選挙の結果を軽んじる政権の姿勢は見過ごせない。コロナ禍の対応で知事らの存在感が高まる今、全国の首長や議会から、沖縄の民意を尊重するよう国に求める動きが出てくることを期待する」(神戸新聞 6月14日)

 「辺野古の海の埋め立ては現在、全量の2%に満たないとされる。今、打ち切れば、サンゴなど希少な生態系への影響も少なくて済む」(中日新聞 6月16日)

 全国紙は、工事再開そのものは報じたものの、それ以上の言及は見当たらない。

コロナ禍の中、辺野古で再開されている新基地建設の工事

 イージス・アショアの計画停止

 一方で、正反対の出来事があった。辺野古工事再開の3日後、防衛省は、秋田県と山口県で計画されていた迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の計画停止を発表した。発射後に分離されるブースター(推進装置)が、自衛隊演習場や洋上以外の場所に落下する可能性があるためで、改良のためには費用と時間がかかり過ぎるという理由だ。

 ブースター落下は初めから言われていたし、システムのレーダー波による住民の健康への悪影響も指摘されている。また両県はハワイとグアムに向かう弾道下に位置することから、実はアメリカ国土を守るためではないか、との見方もある。コロナ禍で多くの国民が窮状にあるなか、そんなものに莫大な予算をつぎ込むのが「合理的な判断とはいえない」(河野防衛相)のは当たり前の話だ。

 しかし、計画停止を報じる新聞各紙が一斉に書いていたのが、「対米関係への懸念」だった。

 「米国からの反発などを受ければ、配備計画の停止という決断の見直しを迫られる可能性もある」(朝日、6月16日付)、「交渉の行方は日米関係そのものにも影を落としかねない」(毎日、同)、「米国から別の装備品を購入する案が検討されているという」(読売、同)――。

 確かに「事実」には違いない。要するに、今の日本の政権がトランプ大統領の顔色を常に窺うように、日本という国、つまり日本国民はアメリカ合衆国のご機嫌を損ねることを、極度に恐れている。新聞報道もそうした国民感情を反映しているに過ぎない。

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