沖縄から眺望できる「国民的思考停止」という病の風景――辺野古米軍基地建設とは何なのか

この記事の執筆者

 辺野古では――

 沖縄の新聞は、問題を辺野古の新基地建設に広げてとらえていた。

 沖縄タイムスは17日付社説で「計画のずさんさ、住民の反発―。イージス・アショアが停止に追い込まれた要因は、まさに名護市辺野古の新基地建設で問題になっていることとピタリと重なる」。そして建設現場で想定外の軟弱地盤が見つかったことによる工期延長と工費の膨らみ、さらに昨年の県民投票で7割が埋め立て反対を示したことに言及し、「辺野古も『合理的な判断』で、白紙撤回するべきだ。二重基準は許されない」と訴える。

 琉球新報も同日付で「技術的な問題が大きいのは名護市辺野古の新基地建設も同じだ」として、「辺野古の埋め立て強行は二重基準と言える」。

 同じように解決不能な問題を抱え、同じように地元の人々の反対に合いながら、地域によって真反対の「二重基準」を当てはめることを「差別」という。立ち止まってそれを見直す兆しは、まだ見られない。

 思考停止という「病」

 論理薄弱な理由で地元の人々の反対を押し切って広大な自然を破壊する愚行が、いったいなぜまかり通るのか。「差別」以前の問題として、何のため、誰のための工事強行なのか。政府の言う「普天間の危険性除去」は、「辺野古が唯一」の理由にはならない。

 冷静に見る限り、イージス・アショアの計画停止は極めて適切な判断だった。だが、そこで取りざたされるのはアメリカとの関係に対する懸念であり、辺野古まで中止することの対米関係への影響を考えれば、容易にはやめられないということなのか。つまり、イージスと辺野古の両方を見直すだけの覚悟が、この国には期待できないということか。さらに言えば、沖縄の民の反対や不安は、「本土」の民のそれに比べれば許容範囲、という差別意識が日本人の中に根強くあるということなのか。いずれであれ、問題の本質を熟慮し、議論した結果とはいえず、なんの思考もなされてない。

 では、そのような「思考停止」は誰のものであるのか。辺野古埋め立て強行という現政権の愚策は「症状」ではあっても、病のもとになる「病原」とはいえない。小選挙区制といういびつな制度とはいえ、民主的な手続きで選ばれ、なお一定の支持率を得ているのだ。官僚は政治によって動くものだから病原とは言えず、マスコミも根源的な問題とは言い難い。

 結局のところ、この国の主権者である「日本国民」の総体的な思考停止こそが、「病原」そのものということになる。中国や北朝鮮の脅威はたびたび取りざたされるものの、防衛問題を思考する意識は国民全体的にあまりに希薄だ。自国の安全保障をアメリカ合衆国という外国にゆだねるだけで、なるべく考えないようにしている。沖縄のアメリカ軍基地や迎撃ミサイルの是非が国政選挙の主要な争点になるわけでもない。「平和憲法」があるから日本は平和だ、日米安保条約があるから日本は安全だ――。そんなことを言い合いながら、私たちは安全保障政策の本質的な議論を何十年もさぼってきた。「敗戦後日本人」とでもいうべき私たちの「思考停止」こそが、この国の「病原」なのだ。それに感染している点では護憲派も改憲派もなんら変わりはない。

 受け止めるべき民意とは

 一連のコロナ騒動を振り返ってみれば、十分な補償も受けられずに苦渋の中で営業を続けざるを得ない商店主や、不運にも感染した有名人、PCR検査の拡充を求める専門家らに罵声を浴びせる愚衆のいかに多かったことか。権力に従順で、同調圧力を疑わない国民のことを、「民度が高い」とは言わない。SNSという言論空間でさらけ出された「思考停止」が多数派を占めるなら、やがて社会を恐怖に陥れる。同じように、沖縄という「少数派」の問いかけを、「多数派」のヤマトゥンチュ(本土人)が無視し続けるのであれば、議論の停滞と国としての堕落に歯止めはかからなくなる。

 6月23日の沖縄慰霊の日に際し、イージス・アショア配備の候補地だった秋田県の地方紙、秋田魁新報は「地元の反対の中、強引に進められたのは沖縄と同じ。(中略)諦めずに声を上げ続けることが大切と再認識させられた」(24日付)と書いている。そのうえで、イージス停止後の政府による「抑止力」の検討について、「民意を十分に受け止めたうえで議論を進めることが必要だ」と記した。

 自らの地が、国民的な議論もろくにないまま国策の踏み台にされかかったことで、にじみ出てきた言葉だと思う。

 安全保障政策に民意を反映する――。そのためには、民が政府や専門家と称する面々の話をただ信じ込むのではなく、自ら情報を見極め、思慮し、行動につなげようとしなくては形にはならない。なによりも国民的議論を怠ることは許されない。「敗戦後」から抜け出し、自ら思考し、議論する「日本人」になること。その問いかけは撓まずに続けていきたい。

 【本稿はnoteより転載しました】

この記事の執筆者