戦死の「虚飾」を拒む視座

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【おすすめ3点】

■死者たちの戦後誌(北村毅、御茶の水書房)

「沖縄の戦跡」という場から戦死者たちの「戦後」を考察。

■沖縄戦を知る事典(吉浜忍・林博史・吉川由紀編、吉川弘文館)

非体験世代の研究者らが沖縄戦のキーワードを解説。

■沖縄の祈り(大城貞俊、インパクト出版会)

沖縄文学と沖縄戦を考える手引き書ともいえる小説。

「靖国化」の経緯

コロナ禍は6月23日の沖縄全戦没者追悼式にも思わぬ余波を及ぼした。

主催者の沖縄県は5月、新型コロナウイルス感染拡大防止のための規模縮小に伴い、例年実施している「平和の礎」近くの式典広場から、国立沖縄戦没者墓苑に会場を変更する方針を打ち出した。変更といっても、平和祈念公園(糸満市摩文仁)内の隣接エリアにスライドさせるにすぎない。だがこの判断をめぐって沖縄内部で批判が噴き出し、事実上、こうした声に押される形で元の場に戻されたのだ。

戦死者を弔う場をめぐる議論は沖縄ローカルにとどまらない普遍的な問題提起をはらむ。批判の根底にあるのは「国家に強いられた死」を直視するまなざしだ。

沖縄国際大学の大城尚子は、「平和の礎近くの式典広場で行うからこそ、国からの関与について、抑制が効いていると考える」と唱え、「しかし、もしも国立沖縄戦没者墓苑を会場にする場合には『国のために戦ってくれてありがとう』という言葉が出てくるのではないか。それぐらい違う場所だ」(6月3日付『琉球新報』)と指摘する。

この隔たりの大きさを理解する上で必須のテキストが北村毅著『死者たちの戦後誌』だ。

平和祈念公園内は摩文仁の丘の上の「霊域ゾーン」と、丘の下の「平和ゾーン」など4ゾーンに分けられる。平和の礎や平和祈念資料館などがあり、追悼式の式典会場もある平和ゾーンは、国立沖縄戦没者墓苑のある「霊域ゾーン」とコントラストを醸す。

摩文仁は1950年代までは数基の慰霊塔があるだけで参道すら整備されていない殺風景な場所だった。それが60年代に入って一変する。日本政府の国庫補助を受けて進められた「霊域整備事業」に符合し、各府県が慰霊碑を整備する「建立ラッシュ」が起きた。摩文仁の丘の上にひしめく慰霊碑は、高度成長期の日本の平和と経済的繁栄を象徴するように造形美を競う「コンクール」の様相を帯びた。

この結果、摩文仁の丘の上には各府県や旧軍関係者による慰霊碑が乱立し、「本土」から多くの参拝者や観光客を呼び寄せる聖地になった。

各府県の慰霊塔が追悼しているのは沖縄戦の戦死者だけではない。「南方地域」を主とするアジア太平洋戦争の各戦域での戦死者も含む。同著によると、32府県の慰霊碑のうち合祀対象が「沖縄戦戦没者」に限定されているのは5基にすぎない。残りの27基の慰霊碑は沖縄を越えて「南方諸地域」にまで拡大した戦死者を対象にしている。碑文に「沖縄戦」と書かれているものは2基しかなく、中には「大東亜戦争」と明記している慰霊碑も5基あるという。

碑文の多くが、「殉国者」や「愛国者」を称えるトーンで貫かれていたため、70年代に入ると一帯は「靖国通り」と形容されるようになった。この霊域ゾーンのほぼ中央に鎮座するのが、79年に完成した国立沖縄戦没者墓苑だ。

当時は日本国外にあった沖縄に、なぜこれほど大規模なアジア太平洋戦争の戦死者のための慰霊空間が用意されなければならなかったのか。北村はこう難じる。

「摩文仁は、生きている『日本人』のための植民地的空間と化した。そこは、戦争で死んだ『日本人』の慰霊空間という体裁を整えつつも、生きている『日本人』が、敗戦の記憶を慰撫しつつ、『日本の戦後』を自己肯定する戦後日本の巡礼地というにふさわしい場となった」

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