虚飾の上書きを懸念
丘の上は「霊域」、丘の下は「平和祈念」という空間のすみ分けが、より明確化したのは90年代だ。大田昌秀知事が平和行政の目玉として95年に「平和の礎」を設置すると、多くの県民が参拝に訪れた。軍人・民間人、敵・味方、加害者・被害者、国籍の別なく、すべての沖縄戦の戦死者を刻銘するこの事業の中心的役割を担った沖縄国際大学名誉教授の石原昌家は、原点は「戦場跡の再現」だと明かしている。
激戦場から生還した沖縄住民が最初に目撃したのは、地面に累々と横たわる白骨化した遺体だった。そこには敵・味方、加害者・被害者を区別する発想はない。
「戦場の跡をそのままにしておけばそこでは二度と戦争はできないであろう。しかし、それは物理的に不可能だからすべての個人の名前を刻銘することによって、戦場のありのままを擬人化したものである」(5月26日付『琉球新報』)
遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松は、集めた遺骨を国立沖縄戦没者墓苑に納める際、遺骨に頭を下げているのか、国に頭を下げているのか分からなくなる、という(6月9日付『沖縄タイムス』)。そして、軍人より住民の犠牲者が多く、遺骨の人種の判別も困難な沖縄戦の遺骨の特色に鑑み、国立沖縄戦没者墓苑を沖縄県管理の「国際平和墓苑」に改めるよう提唱する。
国家目線か、個の尊厳に力点を置くのかによって戦死者の追悼の意味は全く別の色を帯びる。具志堅はさらに、「戦没者に死を強いた国家は、真に遺族とともに悲しむことができるのだろうか」と東京で8月15日に行われる全国戦没者追悼式の内実に疑問を投げかける。式は毎年、メディアを通じて全国に報道され、国の為政者が戦没者と遺族に寄り添う姿が国民にアピールされる。しかし、強制的に兵士を戦場に送り出した国の加害性は明確にされないまま、謝罪もなく、戦没者の死を国民のための崇高な死と位置付け、「遺族の怒りを誇りにすり替える手法」が続いている。近い将来、すべての遺族が亡くなっても追悼式が続くことを考えれば、詰まるところ追悼式とは、戦争を知らない世代に戦死を価値ある犠牲であったとアピールする式典になるのでは、と虚飾の上書きを危ぶむ。
執筆者全員が戦後生まれという『沖縄戦を知る事典』。中学校の平和学習で平和祈念資料館を訪れた際、展示されている魚雷をスケッチして教師に殴られた体験が、沖縄戦に向き合うきっかけになった執筆者もいる、と「はじめに」で記されている。
精巧な殺人兵器を前にして初めて戦争のリアリティを実感した生徒の思いを一切くむことなく、「平和学習」の枠からはみ出すとして許さなかった教師の振る舞い。そこに、戦争につながる「何か」を見出すことも可能だろう。権力に抑圧され、理不尽に命を奪われた戦死者のたどった道は、私たちの日常と地続きであることに気づかされる。
作家の大城貞俊は『沖縄の祈り』で、「死者」と「生者」の境界を揺さぶる。
小説の主人公は沖縄戦体験者らの聞き取りを続ける大学院生だ。読者も一緒になって体験者の「語り」に引き込まれる。その刹那、主人公たちが、ふいに当たり前の事実に気づき、驚愕する場面に出くわす。
「ぼくたちは、死者の証言を聞くことはできない……」
「もっとも辛い体験をしたのは、死者たちだ」
読者も主人公と共に立ち止まって考えざるを得なくなる仕掛けが周到に用意されている。
結局、私たちは戦禍を生き残った人たちの言葉の中から戦死者の思いを想像することしかできない。だが、その生き残った人たちもやがて死んでいく。残るのは自分の中にある「記憶」だけだ。人の思いは揺れ動く不確かなものだ。記憶もあいまいになり、増殖したり欠落したりもする。それでも、大城は「聞き続けることが沖縄の祈りに繋がるように思います」と主人公に語らせている。
作家の意図は「考え続けろ」ということだろう。
読者である筆者は、生きている間に、あとどれぐらい信じるに足る言葉を記憶に刻めるだろうか、と思った。
【本稿は8月23日付『毎日新聞 沖縄論壇時評』を加筆しました】