辺野古新基地「日米共同使用」の歴史的文脈【上】

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1.90年代から模索されてきた基地の共同使用

 今日進展している沖縄の米軍基地の共同使用の直接のきっかけとなったのは、冷戦終結直後、1990年代の「同盟漂流」とも言われる日米同盟の危機であった。

冷戦終結後、ソ連という脅威が消滅し、また日米間には貿易摩擦が激化する中で、日米同盟の存在意義が問われることになった。その一方で、朝鮮半島危機や台湾海峡危機などによって、日米間の緊密な協力が必要であることが認識された。こうした中で、日米同盟の存在意義を再確認するべく、日米の外交・防衛当局間では、「日米安保再定義」と呼ばれる作業が進められていく。

 ところが、1995年9月に起こった沖縄での米兵による少女暴行事件によって日米同盟は大きく揺らぐことになる。冷戦終結後、沖縄では米軍基地が縮小されることが期待されていた。しかし米軍基地は維持され、しかも米兵による事件が起こったことに沖縄県内では怒りが爆発したのである。

 このように一方では東アジアの安全保障環境の中で日米同盟の重要性が高まり、他方では沖縄での米軍基地への不満が高まる中で、沖縄基地の共同使用が模索されていく。米国側は、朝鮮半島有事や台湾有事に備えて沖縄に軍事拠点を維持する必要があるとする一方で、自衛隊基地を有事に使用できるのであれば、沖縄米軍基地の縮小に応じてもよいと伝えた。日本側も、沖縄米軍基地の整理縮小を進めると同時に極東有事において米軍への協力を進めるために、自衛隊基地の米軍との共同使用を進めようとした。

 さらに平時からの沖縄での米軍と自衛隊の常駐という基地の共同使用の必要性も唱えられていく。当時、ポール・ジアラ元国防総省日本部長は、沖縄基地問題の解決策として、米軍基地を自衛隊に移管するとともに、自衛隊を米軍基地に常駐させるという基地の共同使用を提案した。これにより、日米同盟の相互運用性を向上させるとともに、日本政府が米軍基地を共有しているという感覚を生み出すことができるというのだった。さらに在沖海兵隊も1995年の沖縄での少女暴行事件をきっかけに、陸上自衛隊との交流を一層深め、それによって沖縄に安定的に駐留できることを目指したという。

 2000年10月には、リチャード・アーミテージ(ブッシュ・ジュニア政権下で国務副長官)やジョセフ・ナイ(クリントン政権下で国防次官補)らの専門家グループによる日米同盟強化に向けた報告書が発表される。そこでも、米軍と自衛隊との協力関係強化のため、「日米両国は、施設の共同使用の拡大と訓練活動の統合に努力すべき」だと主張された。

 もっとも、この時点では、日本側は、自衛隊と米軍が平時から基地を共同使用することについては、自衛隊には「それだけの余裕もない」(久間章生防衛庁長官)ことから消極的だった。1997年9月に改定された「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)には、日本有事とともに、日本周辺の極東有事において、米軍が自衛隊基地を共同使用することが明記されるにとどまった。

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