司令部陥落まで南部は戦場ではなかった
二つの問題を結びつけるキーワードは「命の真相究明」である。これは4月17日に開かれたオンラインシンポジウム(4月30日まで、こちらからアーカイブをご覧頂ける)で金英丸氏が使われた言葉だ。前回の私の記事でも言及したとおり、現在新基地建設の材料に使われようとしている土砂に染み込んだ遺骨は、沖縄住民・日本兵・米兵・朝鮮半島出身者など、多様な背景を持つ。
なぜそれほど多様な遺骨が同じ場所から収骨されるのか、考え抜くことで沖縄戦の実相が見えてくる。
多様な背景を持つ遺骨が同じ場所から見つかるということは、その場所ではそれほど多様な人々が一緒くたに犠牲になったと言うことを示す。従って、沖縄島南部では、沖縄住民・日本兵・米兵らが混じり合っていたと言うことになる。原則上、地上戦は軍と軍、兵隊同士の戦いであるはずだ。では何故沖縄住民と日本兵らの遺骨が同じ場所から見つかるのか?
それは、沖縄戦が沖縄を守るための戦いではなく、本土防衛のために沖縄を犠牲・捨て石にする戦いだったためである。
沖縄島での地上戦は、4月1日、米軍が沖縄島中部に上陸したことから始まった。4月3日、米軍は島を南北に分断、首里城地下に司令部を設置した日本軍との間で激戦が繰り広げられた。5月末に首里城の司令部が陥落するまで、現在「平和学習のメッカ」として知られている沖縄島南部は戦場ではなかった。
例えば石原昌家先生の『証言・沖縄戦―戦場の光景』には、5月末から6月はじめに南部にいた沖縄県民の証言として、「もう6月に入っていたと思うが、本当に戦争があるのかなと思いました。畑には、大豆やキャベツもちらほら見え、野良(畑仕事)にも出ようと思えばできるほど非常にのんびりしていて、中部から首里であれほどの激戦が続いているのにまるで別天地にきているようでした (p.66)」「毎日サトウキビ畑で、キビを食べたり、私たちは、平和の里にいるような気分でした (pp.99-100)」などが引用されている。
そんな「平和の里」が「激戦地」になったのは、日本軍が来たからであった。
普通に考えれば、司令部が陥落すればそこで勝敗は決し、戦闘は終了するはずである。しかし、本土防衛のための時間稼ぎを第一義とする日本軍は、首里城地下の司令部を放棄し、南部へ下がりながら戦闘を継続することを選んだ。
その頃、南部には激戦を避けようとした住民が集中していた。そこに日本軍が下がって行った結果、住民と日本兵とが入り乱れた。米軍側も、日本兵だけを選んで攻撃することも出来ず、日本軍・沖縄住民の両方を攻撃対象とする掃討戦を展開した。
勿論、その犠牲者の中に、軍夫や所謂「従軍慰安婦」として沖縄に強制連行されていた朝鮮半島出身者の方々がいたことも忘れてはならない。遺骨の多様な背景に想像力を働かせることで見えてくるのは、日本の侵略戦争の中で、組織的・大規模に移動・動員されつつ、犠牲にされた人々の生き様の片鱗である。