運動体の死生観―持続可能で害の少ない運動の形成を目指して

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政治家の相次ぐ沖縄蔑視に、非難の嵐が吹き荒れている。前回の記事で書いた「河野発言」の次は、細田博之氏の「(コロナ感染者が)168人も出るんだって。バカじゃないか」「国の政策に頼るなんて沖縄県民らしくない」発言。国政が果たすべき責任を一切放棄し、沖縄社会・文化の劣等性が貧困・コロナ蔓延の原因であるかのような侮辱を放ち、自己責任論で切り捨てる。そんな権力者の高慢に、ウチナーンチュの方々の堪忍袋の緒が切れた。

そもそも、政府は国民に憲法が定める諸権利を保障する義務を負う。政府のために国民がいるのではない。細田氏は「頼りにならないような国の政策」と恥じらいもなく断言したが、自己責任論を振りかざす時点で、政府は契約不履行であり、その正統性は消滅している。

さすがにここまでの暴言が出ると、野党議員やメディアも放っておけないのだろう。発言が報じられた5月20日は、立憲民主党の安住国対委員長が自民党の森山国対委員長に抗議し、全国メディアも広く報じた。

「沖縄差別」が全国で問題視される数少ない機会。これで「遺骨土砂問題」の行き詰まりも打破できるかと一抹の期待を抱いたが、今朝になるとまた全国的関心は冷え込んだようだ。山谷えり子参議院議員のジェンダー差別発言の撤回・謝罪要求に、世間の関心が持って行かれたようにも思われる。沖縄に対する問題意識や運動は、「生まれがたく死にやすい」ものらしい。

とはいえ、最近の社会運動はあまりに「生まれやすすぎる」のではないかと思われる。毎日暴言か悪法案を放つ現政府の有様は呆れたものだが、その度に抗議のオンライン署名活動が立ち上がり、政府が差し当たり結論を先延ばすか強行採決に踏み切った時点で、運動が終わってしまう。個々の暴言・悪法を生み出す日本社会の構造悪に対する検討を行う余裕もないまま、運動が立ち消えになるケースが多すぎるのではないだろうか。

実際、せっかく高まる可能性を見せた「沖縄差別」への問題意識も、沖縄への緊急事態宣言発出で溜飲を下げられた感じがする。政府は「緊急事態宣言を出してやれば良いんだろう」とパターナリズムを強め、沖縄を攻撃したい集団は「沖縄左翼による言葉狩り」を馬鹿にし、野党議員は「これ以上沖縄にこだわっても益なし」と言わんばかりに関心を失う。結果、元々沖縄に関心がある少数の市民だけが孤立し、構造的沖縄差別が全国で社会問題化されることがない。

沖縄のみならず、日本の社会運動は往々にして、このような自滅パターンを繰り返してきた節はないだろうか?

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