運動体の死生観―持続可能で害の少ない運動の形成を目指して

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「死」への想像力を求める社会運動

「遺骨土砂問題」に対峙するには、格段の想像力が要求される。まず、「遺族」があまりに多様だ。沖縄島南部で犠牲になったのは沖縄住民のみならず、日本兵・米兵・朝鮮半島出身者なども含まれるし、その遺族は国内外にいらっしゃる。当然、沖縄戦に対する歴史観も、日本に対する思いも、それぞれの遺族で全く違う。

さらに、遺骨収集・DNA鑑定も未完了で、沖縄住民の中には一家全滅になった家庭も多いから、具体的に「この場所で誰が犠牲にされた」と名乗り出て主張出来る遺族は多くない。戦後76年経った今では、親族に沖縄戦の犠牲者がいることすら知らない遺族だっているだろう。

5月15日、「沖縄の基地問題を考える小金井の会」のシンポジウムでの具志堅隆松さんの話によると、特に「鉄の暴風」が激しかった沖縄島南部では、爆風で粉々にされた粉砕遺骨が多く、今や周りの土砂と同化してしまっているという。その為、仮に南部の土砂を見て「ここに戦没者の遺骨がある」と言われても、その遺骨のイメージは抽象的・観念的なものにならざるを得ない。

「遺骨土砂問題」に関わる為には、どこの誰とも判らず、実際人の骨だと判る形で帰ってくるかも判らない遺骨の帰りを待ちわびている顔の見えない遺族の方々が、「肉親が日本の起こした戦争の犠牲にされた」という事実を納得するという過程に想像力を働かせなければならないのである。

おまけに国による沖縄分断政策の印象操作までつきまとうから、「悪の成敗」という簡明なストーリーも作りづらい。オンラインの運動によって、一朝一夕に全国問題化出来ないのも道理だ。

5月20日、Zoomで開催された琉球民族遺骨返還訴訟請求支援集会に参加したが、そこでも「死」に対する想像力を社会的に高める難しさ故、運動に苦戦する様子が窺えた。

琉球民族「盗骨」問題とは、植民地主義・優生思想に染められた人類学者が、琉球人の墓から一度葬礼を完了した遺骨を盗み出し、ヤマトの帝国大学(特に京大)内のコレクションの中に入れたことから始まる。京都大学側は未だ遺骨の返還を拒否しており、人類学の研究者は現在その遺骨を研究目的でDNA鑑定しようとしている。

盗まれたご遺骨を、先住民「琉球民族」の共同体として再埋葬する権利を主張する原告の思いに想像力を働かせるのは、本当に難しい。植民地主義的な学問によって盗まれた骨を再埋葬するとはどのような過程なのか? 「先住民族共同体」として(核家族を前提とした私たちの「遺族」概念と全く違うはずだ)一世紀前に同胞の弔いをやり直すとは、どのような意味を持つのか? 直接交流のあった肉親の死を、その遺族が受け入れる過程すら相当難しいのに、琉球民族が再埋葬にかける思いを想像することなど、到底出来ないし、ヤマトンチュの裁判官が法律上の言語で結論を下せる問題では決してない。

この集会に参加していた弁護団の弁護士の方も、法廷でこの問題を説明することの難しさを吐露された。ちなみに、遺骨返還訴訟と先住民族としての権利承認の為の運動で先例となっているアイヌの方々は、40年の運動を経てようやく現在の成果を掴んだそうだ。

「遺骨土砂問題」も、「琉球人盗骨問題」も、「死」への想像力を求める社会運動は、それくらい長いプロセスを覚悟しなければならないのだろう。勿論遺族からすれば運動の長期化などもってのほかで、ヤマト側が新基地建設を中止し、大学内の遺骨を返還しさえすれば即時に解決する問題なのだが、構造的沖縄差別と植民地主義が続く限り、長い運動に耐え抜く持久力を持たねばならないのだろう。

一つ明言できることは、外部の想像力の及ばない複雑さを持つ「死」の受容のプロセスに挑もうとしている遺族がいる時に、外部、特に権力者が一方的に死を定義づけたり、諦め・受忍を迫ったり、勝手に葬礼の完了を祝ってはいけないと言うことだ。

生と死とは、相互依存的な概念である。自分の中で「死」の概念が育ってこそ、「生」の概念も育まれる。自分が属する社会の中で、どのような「死」の概念を育てるか自己決定することは、主体的な生を営む上で不可欠なことではないだろうか。憲法が定める「健康で文化的な生活」とは、このような生き様を指すのではないか。

遺族が肉親・同胞の死を外圧なく受容する自由を保障すること。その過程に決して介入せず、必要な社会資源を確保すること。その過程が行われる場が平穏に存続するか注視し続けること。この原則さえ守れば、どんな社会問題であっても、持続的で害の少ない運動を作ることが出来るのではないかと思う。
同じ「緊急アクション!」呼び掛け人の石川勇人くんの5月21日公開のオキロン記事

に、「国側は社会的に弱い立場に立たされている人の声を聴くことを拒否している」との指摘があった。「死」を受け入れようとしている人たちが、「余計な介入をせず、自分たちの抱える困難さに想像力を致そうとして欲しい」と求める声を、国の権力が圧殺している現状は、速やかに解決すべきだ。一方、運動が暴走・自己目的化して遺族の声の圧殺に加担することがないよう、再度自戒したい。

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