運動体の死生観―持続可能で害の少ない運動の形成を目指して

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構造悪を改善する長いプロセスを耐え抜く力が、日本社会から奪われていくことになりはしないか

中村桂子氏は、「生命科学と死」(多田富雄・河合隼雄編『生と死の様式』に収録)の中で、「過程や時間に眼を向けていない社会」を問題視した。この問題意識は、現在のオンライン中心の運動にも言えると思う。

参加のハードルが下がり、拡散しやすくなったという点ではオンライン署名も悪くないが、あまりの手軽さのせいで次から次へと署名が乱立し、むしろ本質的な社会変革の妨げになっているのではないだろうか。名前とメールアドレスの入力だけで社会問題を解決できると錯覚し、もはやそれぞれの署名の趣旨すら読まない人も多いのではないかと思えてしまう。

ごく一時点だけの運動の参加に満足する人が増える一方、社会問題の構造をじっくり分析し、その構造悪を改善する長いプロセスを耐え抜く力が、日本社会から奪われていくことになりはしないか。

養老孟司氏は「死と死体」(前掲書に収録)の中で、死は「社会的規定であり、それ以外のものではない」という。自分自身の死を経験できない以上、人間は他人の死を「傍らで経験」出来るのみであり、その経験の積み重ねと「想像力」によって、それぞれの社会で納得される死の概念を作り上げるしかない。逆に言えば、生物学などを用いて死という時点を一義的・客観的に定義づけようとしても無理なのである。と言うことは、誰かの死を受け入れる為には、社会的に共有された死の概念を参照しつつ、自分の主観の世界の中で「この人は死んだんだ」と腑に落とす作業を経なければいけないのである。

「遺骨土砂問題」にしても、入管法問題にしても、ジェンダー問題にしても、人の生死、とりわけ自分と地縁・血縁上の繋がりもない他者の生死の絡む問題である。相当の想像力を動員した長いプロセスを経なければ「自分事」に出来る訳もないし、大量・高速の生産・消費を前提にするオンライン署名だけで問題を解決するなど、原理的に不可能なはずだ。

「入管法については、オンライン上の運動でも、ウィシュマさんの死を自分事に出来た」という反論も聞こえてきそうだ。しかし、本当にそうだっただろうか? 入管法改悪案という、悪の標的を潰すことで溜飲を下げられた人も多かったのではないだろうか?

本当に彼女の死を自分事に出来ていたとしたら、決して改悪案の先送りを「勝利」として喜ぶことなど出来なかったはずだ。遺族の方へのビデオすら開示されず、彼女を殺した入管の持つ構造的問題は何も変わらない。そもそも改悪案を先送りしただけなので、現在既に「強制収容所」と化している入国管理局の状況は持続するし、いつ同様の犠牲者が出てしまうかも判らない。「これまで日本社会に犠牲にされた外国人の方々・その遺族への配慮に欠く、日本の市民の自己満足だ」と非難されても、反論できないのではないだろうか。

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