河野太郎・沖縄担当大臣の、沖縄の貧困と結婚年齢の低さを結びつける発言に、怒りの声が高まっている。
「河野発言」(*注)に対する批判の多くは、沖縄にそのような問題を抱え込ませる構造を作り上げた日本社会の歴史的責任を反省せず、沖縄に対する自己責任論を恥じらいもなく言い放ったことに対する批判である。同様の批判を繰り返し、屋上屋を架す必要はないだろう。
あえて今回の原稿を執筆したのは、河野大臣の発言を、「愚鈍な一大臣の妄言」という、一時的な特殊事例に矮小化したくなかったからだ。特に、沖縄戦の歴史を学んできたヤマトンチュ男性の自分としては、ただ彼の発言だけを糾弾して満足する訳にいかない。
前回の記事で、特定の政治家・法案に怒りをぶつけて満足する一点発火型の運動から持続的な運動へと移行する必要性を主張したばかりなので、今回の記事で自らその実践を試みたい。
そこで件の発言を、沖縄を巡る言説史の中で捉え直し、批判に多様性を持たせつつ、自分の当事者性を省察したい。
まず、河野大臣の発言に潜む「植民者としての目線」に注目してみよう。彼の発言の前提にあるのは、「ヤマト=貞節=善 vs 沖縄=性的に野蛮悪」といった、オリエンタリズム丸出しの沖縄蔑視である。
貧困の世代間連鎖のメカニズムは沖縄に限って成り立つものではないはずだが、全ての責任を「沖縄の文化」といった空想の産物に仮託することで、「沖縄問題」を作り上げる。つまり、「沖縄が本質的に劣っているから、貧困が発生している」との印象操作を行うのである。
問題なのは、この言説が単なる沖縄蔑視に留まらず、植民地統治のための一手段として機能していることである。「沖縄担当大臣」を名乗るヤマトンチュから、「沖縄が劣っている」との言い方をされれば、それを権威ある正当な発言だと受け止めてしまうウチナーンチュの方々もいるだろう。
(*注) 「河野発言」とは?
河野太郎沖縄担当相は13日、沖縄の日本復帰49年に関する本紙などのインタビューで、沖縄の子どもの貧困率が高い理由の一つとして「10代の妊娠率」の高さを挙げ、「若いうちの妊娠が引き金」「いかに若い人の妊娠率を下げるか」などと持論を展開した。沖縄の出生率の高さ自体は評価した一方、10代が多いことは「必ずしも褒められる話ではない」と主張した。河野氏は母子世帯の多さにも言及。「沖縄は家族の支える力が強く、親族らの支援が手厚い部分があるかもしれないが、そこに甘えては駄目だ」とした。
「母子世帯の発生を抑える」ことも重視し「内閣府も県や市町村と協力し、前がかりにやっていく必要がある」と話した。また、「出生率が高いのは良い話だと思う。明治時代とかだと10代のお母さんというのはいたのかもしれないが、責任を持って子育てできる世帯というのが大事だ」とも述べた。