河野大臣発言を捉え直す―自己批判としての運動を持続させるために

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戦前の内閣の「無責任の体系」を想起せざるを得ない

一方で、こうした政府の蛮行は、ヤマトンチュにとって決して対岸の火事ではないことにも言及しておきたい。河野大臣の発言は、全国民に「自助」を要求し、国家が社会権を保障する責任を放棄する現政権の姿勢の反映でもあるからだ。

そう思って現政権の閣僚の発言を振り返れば、河野大臣同様、政府が責任を持たず、一切を現場に丸投げする人がどれほど多いことか。

「遺骨土砂問題」では、厚生労働省は自ら管轄すべき遺骨収集事業が辺野古新基地建設で妨害されることに抗議すらしない。対する防衛省は、現場での土砂採取事業への監督責任を放棄し、個別案件は沖縄防衛局担当だと繰り返す。

コロナワクチンも地方自治体への責任転嫁が続き、鳴り物入りの大規模接種も自衛隊任せ。政府が用意したシステムの不備が指摘されると、その不備を指摘したジャーナリストに逆ギレする。

上川法務大臣は、自分の在任中、「強制収容所」と化した入国管理局が何人の犠牲者を出したかすら認知していない。自身の監督不行き届きを問われているのに、答弁からは一切の恥じらいが見られない。

全内閣的サボタージュとも言うべき現状を見れば、軍部独裁と現場の暴走を許した戦前の内閣の「無責任の体系」を想起せざるを得ない。

「無責任の体系」の継承者となった戦後日本の政府は、「国の非常事態下で起きた身体や財産の被害は、国民が等しく受忍しなければならない」との戦争被害受忍論を展開し、戦争被害からの回復を国民の「自助」任せにした。この国は一貫して、人々(ウチナーンチュ・ヤマトンチュの別を問わず)の生命・尊厳に対して責任を取る気がなかったのだ。戦後76年が経過して「遺骨土砂問題」が起きているのも、その結果である。

現在日本は国民主権の民主主義国家なので、憲法を武器に、政府の無責任に対する責任を国民に押しつけてくる可能性もある。ある意味、明らかに無理筋な「受忍論」より厄介だ。勿論、憲法は権力側を統制する社会契約の章典であり、憲法で定められた責任を履行しない政府はその正統性を失うものだが、元来社会権保障への関心が薄く、特に軍事化した政府との癒着が際立つ最近の司法なら、憲法を悪用した自己責任論の正当化すら許してしまうかも知れない。

河野大臣の発言一つを丹念に分析すると、沖縄差別の問題と日本政治全体の問題の両方が、歴史の中で繰り返される現象として現れてくる。例の問題発言も、決して脈絡なく発されたものではなく、日本社会の構造によって一定程度必然的に生み出されたものだったのだ。

だとすれば、河野発言も他人事とは見なせなくなる。自分自身の思考・言動も、日本社会の構造に規定されている。従って、自分も河野大臣同様の思考・言動をしてしまっている可能性もある。「具体的にどの場面でどのような発言をしたか?」などと問われると窮してしまうが、少なくとも私のような一般市民の多くが、彼のような発言をする政治家に問題意識を持たずにいたからこそ、彼は今「沖縄担当大臣」の座にいるのである。

「自分も同様の発言をしうるのではないか?」 河野大臣の発言を批判したり馬鹿にしたりする前に、この恐怖を持たなければ、構造的沖縄差別を解決するための運動が、逆に沖縄差別を強めるものになってしまう危険性もある。周囲の知人やSNS仲間が河野発言を批判しているからといって、やすやすとそれに便乗し、自分の当事者性への無自覚・無批判に陥らないよう自戒したい。

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