河野大臣発言を捉え直す―自己批判としての運動を持続させるために

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この原稿を書いていて、沖縄を苛む問題に当事者意識を持続させるための一般的なスキームを一つ見つけることが出来た。それは、

(1) 国の政策や政治家の発言に潜む、沖縄分断を意図した差別者的・抑圧者・植民地主義者的態度を探し出す

(2) 同じ態度が全国に向けられている可能性はないか考える

(3) その態度が日本社会の構造からどのように生み出されたか検討し、自分もその構造の中で生きている以上、同様の態度を取りうるのではないかと自己批判する

という3段階だ。こうすれば、「構造的差別の加害者になりたくない」という、運動を持続させるための精神的エネルギーを得ることが出来るだろう。

沖縄で起こっていることは、いつも「沖縄問題」として特殊化・矮小化される。それは、ヤマトの沖縄差別故に、日本社会の構造悪が真っ先に、最も激しい形で表出するのが沖縄だからかもしれない。逆に言えば、沖縄で起こっていることを見れば、日本全体で何が起こり得るか見抜くことが出来るのである。

沖縄戦の時もそうだった。実際の地上戦は偶然沖縄で終わったが、九州で回覧された「防衛新聞」を見ると、沖縄戦同様の住民を巻き込んだ地上戦が九州でも行われる予定だったと判る。兵役法の徴兵対象を拡大した大規模な住民の戦闘動員も、沖縄では超法規的な形で実行されたが、1945年6月23日の「義勇兵役法」施行により、全国で実施可能になった。

「沖縄で起こっていることは、明日は我が身」 そう思って、沖縄の問題への関心を維持しなければならないだろう。それが歴史が示す教訓だ。

全国的に報じないメディアの姿勢

ちなみに、河野発言も全国的にはあまりメディアの注目を得ていないように思われる。「遺骨土砂問題」の時と同様だ。

「遺骨土砂問題」にしても、河野発言にしても、日本社会の構造悪を示すものなのだが、メディアがそれを全国的に報じないのは、もはやその構造悪と共謀関係にあるとの批判を免れないのではないか。

政治権力の批判者としての職責に立ち返り、「遺骨土砂問題」も河野発言も全国規模で社会問題化するよう、再度お願いしたい。

今日は、入管法改悪案が今国会中は事実上廃案になったとの報道があった。市民運動の大事な一勝であるのは間違いないが、これが高まった市民運動の「ガス抜き」にならないか、不安だ。市民運動の担い手は、喜びに耽っていてはいけない。日本社会の構造悪は、何ら正されていないのである。

戦前の加藤高明内閣は、普通選挙法で市民を懐柔しつつ、治安維持法を成立させた。その歴史を踏まえれば、改悪入管法廃案の裏で、もっと酷い計画が進んでいるかも知れない。だからこそ、市民は日本社会の構造悪を改めるべく、運動に持久力を持たせるべきだ。

日本社会の構造悪が最も集中する場所である沖縄は、その構造悪を最も鋭敏に批判してくれる存在でもある。実際、河野発言に対しても、多数のウチナーンチュの方々から、鋭く迅速な批判が次々飛び出した。

ヤマトからの植民地主義的同化圧力に屈さず、抵抗者として自己決定し、日本社会の構造悪に毅然と立ち向かうウチナーンチュの方々の声から学ぶものは多い。そんなウチナーンチュの方々に向けるべきは、蔑視ではない。耳が痛い批判も含め、これからもウチナーンチュの方々の声に虚心に対峙し続けたい。

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