河野大臣発言を捉え直す―自己批判としての運動を持続させるために

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大臣の発言を受け入れた場合、起きるのは沖縄の分断である

同様の言説を取る樋口耕太郎氏『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』は沖縄でもよく売れたと聞いたし、実際私の知人の中にも、「その本を読んで沖縄を反省した」という趣旨の発言をする人がいた。

劣っているとの眼差しを向けられれば、自己改善したいと思うのが人間心理だ。自分が性道徳の唱道者であるかのように、沖縄の性的野蛮さを責める河野大臣を前にしたウチナーンチュの方々の中には、差別意識を内面化し、自らの文化への自信・自尊心を奪われる方もいるだろう。「自分たちのことを棚上げして、大臣を批判して良いのか?」と二の足を踏んでしまう人がいても不思議ではない。

大臣は元々正義の側に立っていると思い込んでいるだろうが、沖縄の内部にも自分の主張が受け入れられると知ると(大臣は「樋口本」の売れ行きを知っていて、自分の発言も同様の支持を受けると予想して発言した可能性もある)、ますます沖縄蔑視を自己正当化するだろう。

一定数のウチナーンチュの方々が大臣の発言を受け入れた場合、起きるのは沖縄の分断である。貧困層や、結婚年齢が低い家庭の人々は、「沖縄の劣等性の証拠」としてのスティグマ・否定的烙印を背負う羽目になる。周囲から、「あなた方のような人がいるから沖縄が馬鹿にされる」と白い目を向けられ、共同体からの支援という社会資源を失うことになるかも知れない。

沖縄に貧困を追わせた根本悪は国だという構図が見えなくなる一方で、沖縄の共同体が分裂し、ウチナーンチュが一体となって国に抗議することも出来なくなる。「遺骨土砂問題」との関連で再三強調した植民地主義的分断統治が、ここでも再生産される恐れがあるのだ。

沖縄と日本との関係の歴史を眺めれば、日本は同じ手法を幾度となく繰り返してきた。方言札・人類館事件・皇民化教育はその典型だ。ウチナーンチュの方々自身、ヤマトの暴力的目線を内面化したが故に、精神障害者の私宅監置・ハンセン病患者の隔離・沖縄戦中の住民スパイ視や集団死の加害者にされてしまう場合さえあった。

こうした人権侵害も、元を辿ればヤマトの植民地主義が原因だが、ヤマト側が「ウチナーンチュ=愚かな犯罪者」のような印象操作を加えると、植民地主義的蔑視の温存・強化に繋がってしまう。大宅壮一が、沖縄戦の住民の犠牲の原因を、ウチナーンチュの方々の「飼いならされた家畜の主人にたいする忠誠心」に帰した発言をしたのが、その典型例だ。

沖縄に対する分断統治が「成功体験」として継承されているからか、現在の政権も同様の手口で沖縄に犠牲を押し続けている。「遺骨土砂問題」のみならず、資金投下と一体化した南西諸島への自衛隊配備や辺野古新基地建設など一連の沖縄軍事化政策も、沖縄分断政策が土台となっているからこそ可能なのである。

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