「重要土地等調査規制法案」廃案を目指すリスクコミュニケーション

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今日6月4日、「重要土地等調査規制法案」が参議院本会議で審議入りする。そもそも立法事実すらない上、数多の憲法違反を孕むから、「法案」として国会に登場する時点でおかしい。自由で安全な市民生活の土台を破壊する法案だから、何とか全国規模での問題意識を高め、廃案に追い込みたい。

これほど危険な法案なのに、何故市民もメディアも、もっと危機意識を持てないのだろう?

この間、全国規模で話題にされた社会問題と比較したとき、ある仮説に行き着いた。それは、「加害者・被害者として具体的個人が想定できない場合、問題意識の喚起が格段に難しくなる」ということだ。

同法案を巡るこれまでの私の論考は、「日本人が未だ封建的主従関係の義務意識から解放されておらず、政治権力に抵抗する主体としての権利意識に欠く結果、権力側の横暴を黙認・受忍してしまっているのではないか?」という懸念を基にしてきた。しかし、市民の多くが政府のコロナ対応の不手際やオリンピックへの執着に対しては批判的であること、与党議員の汚職事件には敏感であることなどを考えると、一概に「権力批判の精神がない」とも言い切れない。市民の多くは、絶対不可侵な「神」的存在として、政権を常時支持している訳ではないはずだ。

入管法改悪反対運動や、性的マイノリティの人権に関わる運動の成果を見ていると、封建的・家父長的な義務意識からの解放は進み、普遍的人権を尊重する姿勢は社会に相当浸透しているとも思われる。市民の多くは「誰もが人として自由に生きる権利がある」ことを当然の規範として認識しているだろうし、「種の保存」などという全体主義・優生学的なイデオロギーで個人の基本的人権が侵害されることを許さないと思う。

だとすれば、「重要土地等調査規制法案」への危機意識醸成を阻んでいるのは何だろうか? 恐らく、この法案の具体性のなさにあると思う。

この間国民世論の関心を獲得した社会問題は、被害者・加害者の少なくとも一方が具体的個人であった。コロナやオリンピックの問題では、菅首相・バッハIOC会長など明らかな加害者がいる。被害者としても、尾身茂・新型コロナウイルス感染症対策分科会長など、メディアのアイコンとなった具体的個人をイメージすることが出来る。行きつけの飲食店経営者や、地元の医療従事者など、身近な被害者の姿が目に浮かぶ人も多いだろう。与党議員の汚職事件も、悪人が誰かはっきりしている。

「入管法」「性的マイノリティの人権」と言えば抽象的だが、前者についてはウィシュマ・サンダマリさんという具体的な被害者・犠牲者がいるし、後者については自民党の山谷えり子議員など、具体的な加害者・悪者がいる。断罪されるべき悪人か、救済されるべき犠牲者の、少なくとも片方に具体的個人が想定できれば、市民は自身と犠牲者を同化し、悪人を糾弾・裁定する役回りを演じることが出来る。それを通し、社会問題に対する当事者意識を獲得できるのだ。

裏返せば、個別具体の当事者を生み出す社会構造にまで突っ込んだ批判には至りにくい。具体的な被害者・加害者の存在に支えられた社会運動が、「外国人労働者の搾取を前提とした日本経済」「性的マイノリティの方々への差別を支える日本の家父長制」など、抽象的・構造的な問題「そのもの」に踏み込んでいけるかは、今後試されることになるだろう。

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