議論の舞台を参議院に移した重要土地等調査規制法案。6月8日の参議院内閣委員会での審議では、質問者の吉川沙織議員が、同法案には政府が主張する実行力すらないことを明らかにした。数多の憲法違反を孕み、立法事実もなく、期待される効果も果たせない。言葉の定義もあやふやで、審議会に丸投げだ。法案提出者側の準備不足は目に余る。つまり、同法案は「無能法案」である。
ただ、このような法案を国会に出した政府を嘲笑するのでは、同法案の真の怖さを見逃してしまうと思う。むしろ、「無能さ」こそ、この法案の一番危険な要素なのではないだろうか。
複数の識者が、重要土地等調査規制法案は現代版の治安維持法だと指摘している。実際、現在の日本社会の状況は、治安維持法が成立する1925年前後に酷似している。なので本稿では、1923年の関東大震災から敗戦までの歴史と現在の社会情勢を比較しつつ、数の暴力で現法案が成立すればどのような暗黒社会が訪れるのか、シナリオを描いてみたいと思う。
もし重要土地等調査規制法案が現代版治安維持法だとすれば、治安維持法成立前夜の社会状況と現在の社会の比較から始めるのが有益だろう。そこで、まずは藤野裕子『民衆暴力』(中公新書)における関東大震災の記述を参考に、既に市民間の分断が始まった現在の日本の危うさを描き出してみよう。
関東大震災で記憶されるべきは、流言により朝鮮人虐殺がエスカレートしたメカニズムだ。藤野は、内務省警保局長が各地方長官宛てに「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せん」としており、「鮮人の行動に対して厳密なる取締りを加え」るよう求める通牒を出したこと、また現場の警察官が朝鮮人に関する誤情報を積極的に流したことに着目する (pp.141-143)。
朝鮮人虐殺の直接的加害者は自警団を結成した市民だったが、彼らの暴力行為は公権力に煽られたものであったのだ。勿論、市民が普段から朝鮮人に対して抱いていた差別意識・猜疑心も虐殺の一因であることは間違い。しかし、朝鮮人を「テロリスト」視することが権力者によって正当化されたことは、虐殺行為そのものも正当化することに繋がっただろう。
もう一つ重要なのが、戒厳令発出が与えた影響だ。藤野は「流言が広まるなか、軍隊が出動し、全面的に治安の維持を担ったことで、あたかも本当に朝鮮人が暴動を起こす(起こした)かのような状態がつくり出された」と指摘している (pp.144-145)。さらには、軍関係者が民衆に直接暴力行為を許可した場合もあったと言う (p.161)。
朝鮮人によるテロ行為が単なる虚実であれば、わざわざ軍隊が町中に来て、直接暴力行為を許可(軍人と市民との権力関係を考えれば、実質的な「教唆」「命令」として機能しただろう)する必要はない。市民はテロ行為が本当に行われていると信じ込まされ、日本社会を自衛するとの正義感から、虐殺に踏み切っていったのだ。「捏造された敵に対する聖戦」だったからこそ、虐殺はエスカレートした。
ここ数年の沖縄の状況を見ると、1923年と同じことが既に起きていることが判る。2015年12月にはキャンプシュワブのゲート前で抗議活動をする市民が公務執行妨害容疑で機動隊により逮捕され、それに抗議した沖縄平和運動センターの山城博治議長も拘束された。直近では、6月4日、北部訓練場の返還地で米軍の廃棄物を調査していた宮城秋乃さんが威力業務妨害で家宅捜索を受けた。
そもそも問題とされるべきは、辺野古新基地建設を強行する国や、基地廃棄物を放置する米軍といった権力側が、住民の平和で安全な生活を脅かしているという事実だ。しかし、権力者に抗議する市民を警察が取り締まると、まるで抗議者が社会の治安に対する脅威であるかのように演出される。
市民の言論空間でも基地反対運動には中国人・韓国人による黒幕がいるとの陰謀論が飛び出す現状で、こうした権力者による実力行使が行われれば、その陰謀論は事実かのように正当化されてしまうだろう。
6月9日には、辺野古の飲食店がのぼりの盗難・破壊被害に遭ったことが報道された。「市民間に既にはびこる差別意識・猜疑心が、公権力によって正当化され、暴力行為が『聖戦』としてエスカレートする」という関東大震災のシナリオが繰り返されようとしているのではないか。そんな疑念を持たざるを得ない。