今年の「慰霊の日」に寄せて―今こそすべき沖縄戦継承の形

この記事の執筆者

北摂地域での運動を行う中で、地域の戦争体験への関心も増した。地元の相可文代先生の調査によると、私の故郷・茨木市では戦前からケシの実栽培が盛んで、戦中には旧制茨木高等女学校内に特攻兵用の「覚醒剤入りチョコレート」の製造工場が置かれたそうだ。実際このチョコレートを食べて特攻に出撃した証言は見つけられなかったそうだが、もしかしたら地元で製造されたチョコレートを最期の食事にして沖縄へ飛び立った特攻兵がいたかもしれない。地元と沖縄戦との思わぬ繋がりが結びつくと、ますます沖縄戦の歴史への当事者意識が強まった。

隣町・吹田市の僧侶・日野範之さんは、故郷の『窪田村史』中の「15年戦争の戦没者の全名簿」(戦没地と日付まで記録された詳細なもの)を見た際、「人口1,431人(1941年)の村から計126人が戦没し、その内4人が沖縄で戦没した」との事実に出会い、沖縄戦への関心が高まったと話して下さった。なかなか市町村史にこれほど詳細な戦没者名簿が含まれている場合は少ないので、一般的に応用できる事例かは判らないが、自分の地域から沖縄戦に動員された方の足跡を辿る体験も価値があると思う。

詳細な調査は出来なくとも、少なくとも自分の暮らす都道府県出身者の沖縄戦没者数は沖縄県のホームページで知ることが出来る。実際私も地方議員の方々と沖縄戦の話をする際、「沖縄県南部の土砂には大阪府出身の戦没者の遺骨も混じっている」と強調した。

いきなり「沖縄戦を学ぶ」といっても、教員・生徒両方にとって遠い話に感じられるかも知れないし、まして沖縄を苛む問題について具体的な行動を起こすなどハードルが高すぎるかも知れない。しかし、地域の戦争体験の掘り起こしであれば、当事者意識や関心も持ちやすいだろうし、沖縄戦との思わぬ繋がりが見つかれば、宝探し的な喜びも味わえると思う。

先日、以前から交流のある新聞記者の一人から、「今は生徒も保護者も、ひめゆり学徒隊という名前すらおぼつかないほど沖縄戦に対して無知だ」と言われた。教科書レベルのキーワードすら教えられない(そもそも歴史学習が現代史にまで到達しないとの問題がある)のでは、地域史の掘り起こしすら難しいかもしれない。

しかし、いくら教科書レベルのキーワードでも、自分にとって他人事であれば憶える気にすらならないだろう。そうであれば、より関心を持って学べる地域の戦争体験に絞った平和学習を徹底するのも選択肢の一つであって良いように思う。

「教科書レベルのキーワードを軽視しても良い」と言いたいわけではない。仮に地域史と直結せずとも、頭に入れておくべき歴史的事項は当然ある。例えばひめゆり学徒隊であれば、「戦争が軍と住民・女性と男性・未成年者と成人の区別なく、軍の任務に活用出来るあらゆる人を動員する」との教訓を伝える上で重要だし、コロナやオリンピックにかこつけた「学徒動員」的現象が起こりそうな今の日本を批判する手段にも使える。

本稿の前半でも強調したとおり、現在進行形の実践的課題として戦争体験継承(これは沖縄戦だけに限らない)を捉え、その都度教えるべき事項を取捨選択することが大切だ。

こうした即時的な学習を進めるためには、メディアの存在も重要だ。しかし、特に本土メディアについては信頼しきれない現状がある。

今年の慰霊の日には、各紙が「遺骨土砂問題」を取り上げたが、そもそも具志堅さんは3月1日~6日に既に第1回のハンストを行って全国に問題提起したのだし、そこでこの問題について全国の認知度が高まっていれば、沖縄県知事が取れる対応の幅も広がったかも知れない。

具志堅さんが6月19日~23日という、梅雨時の高温で気象条件が悪い中、二度目のハンストを行う必要もなかったのだから、全国メディアの報道は「遅きに失した」との批判を免れないだろう。

23日の院内集会でズームを繋いだ際、3月よりも遙かにお疲れになった具志堅さんのご様子(報道陣対応も重なり、頭が回らず集中が持たないので、講演のような型式ではなく、一問一答形式が良いと希望されるほどだった)を拝見して、特にその思いが強くなった。

そもそも、「慰霊の日でないと沖縄戦のことを報道したり学んだり出来ない」との現状もおかしい。国・米軍は記念日とは関係なく問題を起こすし、それに応じて沖縄の方も抗議の声を上げ続ける。沖縄とリアルタイムの温度感を共有する全国メディアであって欲しいが、現状そうでないのなら、ヤマト側でも沖縄のメディアを追い続ける努力が必要だ。

「沖縄にだけ贔屓目を向けている」との批判が来そうだが、沖縄を等閑視することは自殺行為だと強調したい。構造的差別に曝される沖縄は、日本社会の構造悪が最も早く・鋭敏に現れる。つまり、「沖縄で起こることはいずれ日本全国で起こる」のであり、沖縄の抗議の声はそれに警鐘を鳴らす「鉱山のカナリア」だ。

そのことの歴史的証明としては、1945年6月23日が「沖縄戦の組織的戦闘が終わった日」であると共に、17歳未満の少年兵の徴用を全国規模で可能にした義勇兵役法の施行日であったこと、沖縄戦同様の地上戦・持久戦が全国で想定されていたことを指摘すれば足りるだろう。私は良く「防衛新聞」を引き合いに出し、九州で沖縄戦同様の地上戦が計画されていたことを話すが、それ以外の例としては、吉田満「伝説の中のひと」の中に、高知県の久通村(現・須崎市)には米軍の四国南岸上陸を念頭に置いた人間魚雷基地が置かれ、海軍と住民とが「一心同体」になった旨の記述があることを指摘しておく。

「76年前、地元で起こり得たこと」を推測するために沖縄戦の事例を活用する、という沖縄戦継承法も模索できそうだ。勿論、このような学習法が出来るのも、「本土ですぐには起こらないことが、沖縄ではすぐ起きる」という構造的沖縄差別の反映であることは強調しなければならないし、沖縄戦体験の普遍化にかこつけて沖縄の特殊性を無視することは許されないと思う。

「軍は住民を守らない」 これは、体験者から学生の平和ガイドまで、構造的沖縄差別が生み出した沖縄戦の惨劇を学んだウチナーンチュの方々皆が語る沖縄戦の教訓だ。残念ながら、この教訓を内面化できているヤマトンチュは少ない。

山形空港に緊急着陸したオスプレイを「見物」出来るくらい、ヤマトンチュの軍に対する警戒感は鈍い。沖縄に基地を押しつけているからこそ可能な「平和ぼけ」だが、それを批判した玉城健一郎県議に逆ギレの刃が向けられる事態である。

「何故玉城県議がそこまでの発言をしたのか?」と問いかけようとしないヤマトンチュの姿勢に問題があるが、そんな傲慢さを払拭しないヤマトンチュは、軍隊や戦闘機という存在自体に無批判になり、いつその犠牲にされるか判らない。わざわざ警鐘を鳴らして下さった玉城議員に、むしろ感謝すべきである。

「愛の反対は憎しみではなく無関心です」と、玉城デニー県知事は平和宣言で語った。沖縄に対する無関心は、構造的沖縄差別を温存する罪深いものであると共に、日本社会の構造悪への無感覚を生み出す自殺行為だ。

具志堅さんは、「遺骨土砂問題」が解決しない限り、8月に3回目のハンストを計画中だという。これ以上沖縄の方々が犠牲にされてはいけない。沖縄への無関心を今度こそ解決すべく、これからも自分が出来る取り組みに邁進するのみだ。

この記事の執筆者